、伝統のふかい欧州上流人の生活様式に不案内の弱点を、かえって、おもしろさに転化させて生きて来たのだと思われた。
 金のことなんかわからないふりして――。そういう言葉は金のために砂場嘉訓がどんな苦しい経験をしたかということを、逆に伸子に考えさせた。画商からまるではたかれた金をあてがわれたとき、肖像画の依頼者から画料について、みみっちいほのめかしをされる都度、日本の画家砂場嘉訓は、イギリスのむずかしい金のことはわからないというふりを逆用して画料もじりじりとあげて来たにちがいない。
 郊外の家へ帰って来て、素子に、砂場嘉訓に貰った不思議な餞別の話をしているうちに、伸子は鼻の髄が酸っぱいようになって来た。
「よくて、わたしたちはね、あっちへ行って決して活躍[#「活躍」に傍点]しないのよ。いい? あっちで有名人になろうとするなんて、こわいことだわ」
 伸子は、何かから自分たちの生活を防衛するような眼つきをした。
「ただどっさり観て来るの、感じてくるの、ね? それでいいでしょう?」
 同時に素子としてはどうしてもロシア語をしっかりものにしてかえって来なければならない。伸子は、素子の沈黙のなかに、その主張を感じた。
 いよいよ荷物を運び出す日になった。日本橋の素子の従弟のところから、若いものを四人よこしてくれた。働きなれた人々の手で家じゅうは思ったよりずっと簡単に空っぽになった。そして、最後のトラックが駒沢の家の門から出て行った。手伝いの男たちもそれに同乗してゆき、ふとん類もつみ出した伸子たちは、すっかり建具のとりはらわれてがらんとした縁側で番茶をのんだ。とよ[#「とよ」に傍点]はそのまま駒沢の奥の実家へ帰り、伸子たちは、今晩、老松町の裁縫屋の増田のところへ泊ることになっていた。素子が京都へ立つまでの数日の宿として、そこがきめてあった。いまは空屋となった家のなかから丁寧に雨戸をしめて戸締りし、風呂場のくぐりから外へ出た。そこへも、えび錠をかけるとよ[#「とよ」に傍点]の手もとを見まもりながら、伸子はいよいよこうして日本を離れようとしている自分を痛感した。伸子を、日本にひきとどめるようなものはなに一つない。この家の生活にしろ、どこでの生活にしろ。――しかし、そこを離れるための準備ばかりがされているいま、そのあわただしさと全く事務的ないそがしさをとおして、これまでの生活のすべてがそこにあった倦怠や憎悪さえひっくるめて一つの忘れがたいものとして迫った。それを思い出とよぶにはまだあんまり近すぎ、しかも、もうはっきり自分たちの生活する場所ではなくなったものとして、今朝まで住んでいた家に最後の戸じまりをして去るこころもちは、深く伸子をうごかした。
 伸子たちが戸じまりをしている間に素子が近所別れのあいさつにまわっていた。それをすまして帰って来るのを葉の黄色い秋のポプラの樹の下で待ち合わし、やがて、三人はそれぞれにかさばった風呂敷をもって、郊外電車の停留場へ出た。とよ[#「とよ」に傍点]が乗る電車と伸子たちの渋谷行方面とは反対で、とよ[#「とよ」に傍点]の乗る方がさきへ来た。とよ[#「とよ」に傍点]は、あいている座席に風呂敷包をおくと、線路ごしに伸子たちの立っている方へ向いて立ち、しまった窓ガラスごしに幾度も腰をかがめた。電車が動き出し、丁度また腰をこごめかけていたとよ[#「とよ」に傍点]の七三の前髪がよろけて窓ガラスにぶつかった。
 伸子と素子とは渋谷からタクシーをひろった。数日来うちつづいたいそがしさに疲れて、伸子はいくらか胃がこわばり痛みそうだった。タクシーの座席のクッションに頭をもたせかけるようにして、はしりすぎる街の風景を見ていた。素子もひどくくたびれて、同じようにうしろへ頭をもたせかけ、目をつぶってタバコをすっている。
 青山の大通りをはしっていたタクシーは前をゆく電車と、板を積んだ荷馬車とに行手をさえぎられて、不機嫌そうにスピードをおとし、徐行しはじめた。伸子のかけている側の窓からは、すぐそばに歩道が見え、そこに、ちらりと、うなぎ屋の紺ののれんが目に入った。そののれんに橋本と白く染めだされている。クッションにもたせかけた頭の位置はそのまま、伸子はじっと刺すようにそののれんに視線をすえた。このうなぎ屋を伸子は知っている。よく知っている。佃の妻であったころ、急にお客へ食事を出さなければならないとき、伸子は台所口から前かけ姿のまま出て行ってはこのうなぎ屋へ中串やどんぶりを註文に来た。佃の家のある裏の通りから、ここへ出る角は時計屋で――昔のとおりの順序で、伸子の乗っているタクシーの窓に、二人の天使が舞いながら、時計盤を吊りあげている青銅の飾《かざり》時計がおいてある時計屋のショウ・ウィンドウがあらわれて来た。この時計屋から佃の家までは、裏をまわって二町ばかりしかない。この時計屋の角へ出る道の一方のはしは石屋の角で、そこから入った裏通りのなかごろの右側に佃の家がある。伸子が、恐怖や、憎悪にうらづけられた鮮明さで覚えているその大きい石屋の、石柱を幾本も立てかけた石置場が、店のよこの天水桶とともに、ゆっくりタクシーの窓外をすべって行った。交叉点の手前まで来ると、伸子ののったタクシーはにわかにスピードを出して前方の障害物を迂回し、赤坂見附に向って走りつづけた。
 伸子は、はじめから終りまでクッションにもたせかけている頭の位置を動かさず、タクシーの窓外にジリジリと移ってゆく、昔の生活の場所を瞳の中にうつしとった。橋本と染めだしたのれんの下ったうなぎやの横から、不意に佃がそこの歩道へ出て来たとしても、そして、タクシーの窓ガラス越しに佃の蒼めな顎の大きい顔が伸子の顔と向いあったとしても伸子はクッションにもたせた自分の頭は動かさなかったろう。その界隈の風景はその時代の生活の苦しさとともに伸子の過去のなかにくっきりと凝固していて、きょうの感情に語りかけてくる生命をもっていない。佃とわかれてからあしかけ四年たっていたが、伸子は、どこでも、一ぺんも、佃に出会ったことはなかった。
 街々をつきぬけいくつもの角を曲って自動車が走ってゆくにつれて、青山一丁目の街の光景は次第に遠くにおきやられたが、うなぎやの手前に、青塗りの妙にとび出した露台をもった氷問屋がいまだにあったのを思い出し、伸子はふと、あれは本当はどういうことだったのだろうと思った。佃との生活がだんだん破局を重ねて来て、伸子は佃の家から逃げ出すことが多くなった。東北の田舎にいた祖母のところや、湘南にいた従妹の冬子のところへ。そういう一つの逃げ出しから動坂のうちへ帰って来たとき、多計代が一種の目つきをして、
「佃さんてひとも、あれで案外不自由なんかしていないんだろう」
 そう云って、その頃佃のうちに女中としていたみつ[#「みつ」に傍点]が、佃が病気で鎌倉へ行った先までついて行って世話していたことを話した。そのときの伸子には、せめて、みつ[#「みつ」に傍点]がそうしてくれてよかったという感情しかなかった。それから、伸子がまた決心をぐらつかせてしばらく佃と暮すようになったとき、みつ[#「みつ」に傍点]は、どうもからだがわるいからといって、青塗りのバルコニーのあるあの氷屋の二階がりをして、そこへ移った。いくらうちで養生するようにといっても、みつ[#「みつ」に傍点]はそれをことわって、氷問屋の二階へ行った。
 二三日たってある午後、伸子はそこへみつ[#「みつ」に傍点]を見舞に行った。みつ[#「みつ」に傍点]は、友達と二人でかりている、意外にひろい、和洋折衷の室の真中に床をとってねていた。伸子が、ドアをあけて、三尺ばかりの下駄ぬぎに立ったとき、みつ[#「みつ」に傍点]は、
「だあれ」
と割合元気な声でききながら、枕の上から頭をもたげた。そして自分のかけぶとんのふくらがりごしに、立っている伸子を認めると、
「アラ……」
 伸子が、自分のほかになにかいるのかとおどろいてうしろを見かえったほど、びっくりした声をあげて頭を枕の上におとした。
「入ってもいい?」
 返事がないのでそのままそっと入って床のわきへゆくと、みつ[#「みつ」に傍点]は、すっぽり頭からかけぶとんをかぶってしまった。伸子は、自分が佃のうちの細君であるということからみつ[#「みつ」に傍点]が遠慮するのかと思った。かけぶとんをかぶってしまったみつ[#「みつ」に傍点]に、伸子は気軽な冗談をいったり、慰めたりしたけれども、みつ[#「みつ」に傍点]はかけぶとんから顔を出さず、しまいに、ふとんの中で泣いているのがわかった。伸子には、みつ[#「みつ」に傍点]の激しい感情の動きの理由がわからなかった。妻である伸子のいない間、みつ[#「みつ」に傍点]にばかり苦労をかけて、いまさら慰めてくれても仕方がない。みつ[#「みつ」に傍点]にそう思われているのかと思い、伸子は途方にくれた心持のまま、蒲団の下に見舞の包みをさし入れて、かえった。あれは、本当はどういうことだったのだろう? みつ[#「みつ」に傍点]を見舞いに行ったことや、みつ[#「みつ」に傍点]の不思議な亢奮について佃に話したとき、佃は例のとおり一言、病気で亢奮しているのでしょうといったきりだった。間もなく、伸子はまたその生活に耐えなくて、もがきはじめ、そして最後の逃げ出しをした。そんなことがあったのは、すべて四年もまえのことだった。氷問屋の青塗りの露台は秋日にてらされて今もあすこに在り、佃はあすこのうなぎ屋の裏に別の妻と住んでおり、そこには子供がい、自分は、外国へ行こうとしている。
 自動車は、江戸川の通りから豊川町の高台へのぼる大きい坂にさしかかった。クッションに頭をもたせかけたまま、いつかうつらうつらしたらしい素子が、
「どのへんだい?」
 上体をおこして、窓の外をみた。そして、
「もうじきだ」
 またクッションにもたれこんだ。
 伸子は、目的のところが近づくにつれてまた段々遠方へ出発する前のあわただしい心持になって来た。そして、和一郎にたのまれたことは、忘れずあしたでも行ったとき多計代に話しておかなければならない、と思った。おととい動坂へ行ったとき、和一郎は出会いがしらに伸子を廊下でつかまえて、人気のない客間につれこんだ。そして灯もつけず、椅子と椅子との間に立ったまま、自分はどうしても従妹の小枝と結婚する。多計代たちはきっと反対だろう。どんなに反対したって、譲らないから、そのことを、伸子が行ってしまう前多計代に予告しておいてくれというのだった。
「その決心――かわりようがない?」
 伸子はしばらくだまっていた後、しずかにききかえした。伸子は血族の結婚には不安を感じるのであった。
「かわらない!」
 伸子の不賛成をぼんやり感じた和一郎は、にらむように姉に目をすえながら、低い熱い声でくりかえした。
「僕の命がある間は、このこころもち、変えようないんだ」
 伸子とすれば、それをそのまま多計代に告げておくしかなかった。問題を根本からこねかえすためには、もう時間のゆとりがなかった。伸子は、あと四五日で東京を立たなければならず、大型のハンドバッグの中には、トゥリスト・ビューローで買った東京モスクワ間の切符が入っているのだった。つづけて伸子の心に、保のいったことが思い出された。やっぱりおととい、伸子は手まわりの荷物をつめた大小のスーツ・ケースと一緒に、本をつめた行李を二つタクシーで動坂へ運んだ。その行李にはもしかいることがあるかと思って、ビール箱につめてしまわなかった文学書が入っていた。伸子が、その行李を、中玄関横の板じきにおいているところへ、保が出て来た。伸子は、
「あら、丁度よかった」
 いつもの単純な調子でいくらか一人のみこみに、
「この行李、保さんあずかってよ」
といった。
「もしかしたらあとから送ってほしい本を入れてあるの。たのむわね」
 どうしたのか保は、そのときすぐ返事をしなかった。伸子はかさねて、
「ね、おねがい」
といった。すると保は、なんとなくその行李の繩に手をかけ、重みでもはかるように背を曲げて下を向い
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