れども、
「小説、なにもって行こうかしら……」
 一冊の小説もなしで、外国へ行って何年も暮す。それは、伸子にとってたよりなくまた寂しく思えた。この間まで長い小説をかいていたとき、伸子がずっと机の上にのせていたのは「暗夜行路」であった。仕事をすまして休んでいるとき、また、書こうとすることがらが、はっきり心にまとまって来ないようなとき、伸子は、その小説を開いて一頁二頁とよんだ。断続して、いわば手あたりばったりに開かれる頁は、そのときどき、なにかの意味で伸子の伴侶となった。そうして、伸子は、自分の小説をかき終ったのであった。しかし、これからさき、幾年かの間のために是非もってゆきたい小説――それは何だろう。伸子は、躊躇なく自分の手がそこへのびる小説集を思い浮べることが困難だった。「暗夜行路」を思ってみても、その作品の世界は、伸子のいまの生活感情にとって、前方にはなくて、後方にあった。伸子が、ぼんやり息苦しい生活のせまさを感じ、そこを突破したいうずきを感じている、その限界が、「暗夜行路」にも感じられるのであった。もってゆきたい小説がわからない。伸子とすれば、このことで、一層切実に外国へもゆく気になっている自分のこころの状態を思いしらされるようだった。
「じゃ、ぶこちゃんのは、あとのこととして――浅原さん、あなたは、ロシア語関係の連絡係になって下さい。たのみますよ」
 素子が、蕗子にたのんだ。
「日本語の方のことは、河野さんにたのむから……ねえ、ぶこちゃん、その方がいいだろう。まだあなたの校正だって見て貰わなくちゃならないんだから……」

 二三日おいて河野ウメ子に会い、三人で相談した結果、家の始末をつけたら、素子だけ先へ京都へゆき、あとから伸子が出かけてウメ子も京都で落ち会うことにきまった。京都には三人にとって共通な幾人かの友達がいた。それにウメ子の文学上の指導者である須田猶吉はそのころ奈良に住んでいた。
「丁度よござんすわ、奈良へもよれますし……」
とウメ子がいうのも本当だった。
 京都で落ちあったら、ある女歌人のやっている地味[#「地味」に傍点]な宿にとまることにした。
「いいところですよ。鴨川のすぐそばで――座敷から流れが見える」
 そこは、先へゆく素子が手はずしておくことになった。伸子はウメ子に最後の校正がのこっている小説のことをたのんだ。
「わたし下手でわるいんですけれど、本当に一生懸命にやりますから」
 ウメ子は、美しい上まぶたをつり上げるようにして真実こめていった。
「本が出たら、すぐお送りします。わたしのロシア語なんてあやしいんですけれど、宛名ぐらいかけるでしょうから、思いがけない役に立つわけです」
 諧謔《かいぎゃく》的にそういって、ウメ子は小さい金歯をみせながら、ちょっと舌を出すように笑った。
 引越しのトラックが来る日がきまったとき、伸子は重い気もちで動坂へ行った。駒沢の家かたづけの第一日は動坂へ荷物を送り、第二日は日本橋の素子の従弟の倉庫へ。そう順序だてられた。多計代は、きっといつもの調子で、そのビール箱の中のいくつが、素子の本かときいたりするのだろう。そう思って伸子は気のはずみの失われた顔でその話をきりだした。
「そのビール箱っていうのはいくつぐらいあるの?」
 何となく、多計代のうけ答えは軽快であった。
「全部で、十ばかりなの」
 土蔵の空きまを一寸考えてみる風だったが、
「そのくらいなら大丈夫だよ、もっといで」
 多計代は淡白に承知した。
「災難はいつおこるかわからないから、第一土蔵が落ちるような火事でもあったらそのときのことだけれど――そしたらまあ、お互にあきらめて貰うことさね」
 あらためて多計代は、
「伸ちゃん、いつからこっちへ来るのかい」
ときいた。
「駒沢をひきあげるならひきあげるでいい加減にこっちへ来てくれなくちゃ。電話のとりつぎだけでも、困っちまうのさ。いつ伸子さんはお立ちですかってきかれたって、おりません、わかりませんだもの。それに、お父様もいらっしゃるとき、せめて一枚家じゅうの写真ぐらいとっておきたいし……」
 素子と伸子との旅行の噂がひろまって、問い合わせが電話のある動坂のうちの方へ来るらしかった。そういう外の空気の動きは、多計代の気持に影響した。多計代流に派手にうけとっている外国ゆきということのなかで、素子だけ差別をつけきれなくなっている。しかし、伸子は動坂の家には最少限しか逗留しないですむように日程を立てていた。
 うち合せをすまして伸子が帰りかけているところへ、六尺近い体と、つき出た腹と、ブランデーやけのした顔色とで、日本人というよりいくらかジョン・ブルめいた砂場嘉訓が訪ねて来た。
「こんにちは、奥さん」
 砂場は、さきごろまで二十年近くイギリスに暮して、イギリス人を妻にしている洋画家であった。しなれない日本流の立礼を、特にこの夫人には丁寧にするという風で、膝を少しかがめて辞儀をした。
「佐々先生、まだかえられないですか?」
「まだですよ、あなた、事務所へ電話をかけていらっしゃいましたか」
「ええかけました。じきかえられるということでした。伸子さん、しばらく」
 ひらいた長い二つの脚の間に腹をおとすような姿勢で煖炉まえのベンチにかけた砂場嘉訓は、伸子に向って大きい右手をさし出した。
 伸子が小さかったとき、砂場嘉訓は山陰の奥から上京した日本画の画学生であった。袂のある絣のきものを着て小倉の袴をつけた砂場嘉訓は、伸子のうちの客間の真中に文晁《ぶんちょう》の懸物をひろげ、わきに唐紙をのべて、それをうやうやしく模写をしていた。小さかった伸子は時々廊下づたいに客間へ行って、どこか子供をおとなしくさせるような雰囲気のあるその場の光景をのぞいた。
 それからほどなく、どういういきさつをへたのであったか嘉訓はロンドンへ行った。パン、ミルク。たったそれだけの言葉しか知らなかった嘉訓は、不自由なところは得意の絵物語でおぎないながら、ロンドンの美術学校を卒業し、やがて日本の文展に純英国流の婦人像を送って特選となり、つづいてイギリスでローヤル・アカデミーの会員になった。そして、一流の洋画家として永年暮していたイギリスをひき上げて、先頃帰朝したのであった。嘉訓は帰って来ると昔なじみの佐々のうちへしばしば出入りした。
「奥さん、あなたののどの線は、美しいです。日本の女には滅多にない。ヴィクトーリア女王ね、あのひとは、そういう美しいのどの線をもっていました。是非、描かして下さい。佐々先生の肖像も。きっと描きましょう。お二人はわたしの恩人だからね」
 砂場嘉訓は、永年画架に向って仕事をしているうちにそういう姿勢になったのか。どこにかけても、開いた脚の間に腹をおとして尻をうしろに引いた姿勢となり、ものをいいながらいつもほろ酔いのように、変に柔らかく手頸をふった。そして、上まぶたをほそめた真直な視線で、それも大画家の風貌という風に、ふた息、三息する時間だけ余計にじっとあい手を見た。伸子の幼い記憶のなかにぼんやり浮ぶ若かったときの砂場嘉訓はもっとからだも小さく、無骨で、かたい若者のようだった。今日老大家として現れている嘉訓は伸子に妙に落ちつかない印象を与えた。
 嘉訓が帰って間もない頃佐々泰造が、おどろいたように、
「砂場嘉訓という男は、一風変っているね、金勘定をしらないらしいよ」
といったことがあった。
「まさか」
 多計代が、否定した。
「あれだけ苦学までした人間じゃありませんか」
「若いときは、それゃ苦労したろうが、とにかく、日本の金の勘定はよくわからないらしい」
 泰造と一緒に出かけて、食事の支払いにけたちがいの金を出し、それを注意したら、金の勘定は不得手だからたのむと、札入れを泰造にまかした、というのであった。誰と歩いても、砂場と歩いたひとは、みんなそういうことを云った。
 日本金の勘定を覚えない砂場嘉訓は、佐々夫婦の肖像を描くこともなかなか実現しなかった。
「砂場嘉訓て、ああいう人間だったと見える」
 そういって、多計代は、砂場が、佐々に紹介される知名の実業家や富豪などの肖像を、どんな高い画料で描いているかというようなことばかり話す、と伸子に告げた。
「あてにする方がばかなんだろう。なにがなんだかわかりゃしない」
 砂場嘉訓は日本へ帰ってからはいわゆる画壇というものには余り接近せず、じかに、上流の依頼者へ結びついて行った。フランス絵画の影響のつよい日本の洋画の若い世代は、アカデミックな嘉訓が日本に帰ろうと帰るまいと無頓著らしかった。彼は渋谷の方の、二階に浴室の設備まである洋館に住んでいた。
 多計代はこの前会ったときからだの工合がわるかった嘉訓の細君の安否をきき、
「お宅のジョージさん、やっぱりドアのハンドルをみがいていますか」
ときいた。
「みがいています」
 砂場嘉訓は重々しく首をうなずけると一緒に、右手を自分の前でふらりとふった。
「いまは、子供部屋のハンドルですハハハ」
「お母さんのお手伝いにもなって、いい道楽をおしこみになったこと!」
 砂場嘉訓は、多計代のその言葉に答えず、ちょっとだまっていたが、上まぶたをひき上げるように伸子の方を見て、
「伸子さん、外国へはいつ立ちますか?」
といきなりきいた。今度の計画を砂場が知っていようとは思いがけなかった。伸子は、
「どうして御存じ?」
 素朴に意外さをあらわしてきいた。
「わたしのところへは毎日、新聞記者が来ます。いろいろな人がどっさり来ますからね」
「立つのは十一月です」
「きょう何日? 十月二十日ですね、もうじきだ」
 泰造が帰るまで、と多計代は砂場嘉訓が来るときまって出しかけられるリキュールのコップを煖炉前のテーブルの上においた。
「どうぞ御自由に――ちょっと失礼いたします」
 つづいて伸子もその室を出ようとすると、砂場嘉訓が、
「伸子さん、ちょっと」
とよびとめた。立ちどまって、ふりかえった伸子を手まねきして、自分のいる煖炉前のところへ来させた。
「あなた外国へゆくのは大変いいです。――非常にいいです」
 実感のこもった真面目な低い声で、首をふりながら砂場はそういった。
「大きいところで大きく育つこと。これが大切だからね。――これお祝です」
 砂場嘉訓は、いつの間に出したのか百円の札をむき出しのまま伸子にさしつけた。
「ありがとう、お祝は頂くけれど――お金はいらないわ」
「そうじゃない。伸子さん、金というものはいるものです」
 やっぱり低いしらふ[#「しらふ」に傍点]の声で砂場は手をひっこめている伸子を説得する調子でいった。
「これでも何かの役に立つ。もっていくものです、もっていくものです」
 その上拒絶しかねてその金をうけとったまま立っている伸子の顔を腰かけたままの高さからのぞきこむようにして、砂場嘉訓は一段声をひそめて、ささやいた。
「えらくなるには、ばか[#「ばか」に傍点]のまねしなければだめです。ひとがばか[#「ばか」に傍点]だと思うようにすることが大切です、金のことなんかわからないふりしてね」
 なにがいい出されるのかとブランデーやけした砂場の顔に注いでいた視線をおとして伸子はぞっとしたような気もちでその室から出た。
 えらくなるには、ばかのまねしなければだめです。金のことなんかわからないふりして。――どういう気持で砂場嘉訓は、伸子に、彼のこの秘密をもらしたのだろう。この言葉の中に、伸子は砂場嘉訓のかくされた辛酸と悲劇とを感じた。日本とまるで社会の発達の程度も経済の事情もちがうロンドンで、パン、ミルクということしかしらなかった貧しい東洋の画学生だった砂場嘉訓が、イギリスでも一流のアカデミシァンとして暮すようになるまでにへた苦心が、この奇怪な人生哲学のうちにまざまざと語られている。イギリスの格式ばった中流人たちや上流の絵画愛好者の間に存在の道をきりひらき、才能をみとめられてゆくために、砂場嘉訓は洋画の技法に、日本画の筆法を活用して新機軸をあみ出したばかりでなく、むこうの人々にとっては珍らしい東洋の画家という面を強調し
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