ない伸子の服装のことで、多計代はその相談を同窓生であり、つい先頃までペテルブルグに暮していた大使夫人のところへもちこんだ。そこには、最近フランス人を母にもった若夫人が嫁入って来ていた。その若夫人が相談相手になってやる、ということで、伸子は、一時間半も俥にゆられて、その家へ行かされた。そして、長椅子の上に華やかなクッションがどっさりおいてある客間で、お召の袖口に、重そうな金のくさり細工の腕環を見せている夫人に応待され、若夫人につれられて、レースの被いのかかったダブルベッドと衣裳箪笥でいっぱいになっているその夫人の寝室で、洋服の下縫いの検分をされた。半ばフランス人であり、半ば日本人であり、その半ばフランス人であるという面を優越として意識している美貌な若夫人のじっと見つめる視線の下で、遠慮ぶかく着物をぬぎ、むき出しになる伸子は自分の肩がやけどをするようにせつなかった。
 自分の好みとはちっともあわない大きい縞リボンの結び飾りが三枚の翼のようにつっ立っている帽子をかぶって、伸子はヴィクトーリアの港についた。そこの街を歩いている一人の女も、伸子のかぶっているような帽子をかぶっている女はなかった。伸子はその帽子をぬいで、市中見物のために乗っていた馬車の足もとへつっこんだ。伸子はニューヨークにいる間、自分がその手から手へとわたされそうだった親たちの環境とその関係から急速に自分をひきはがそうと必死だった。佃と結婚したことは、伸子を完全に別の世界のものとし、品位のある人々の環境から離脱したものとした。一年前にひなびた伸子に衣裳の世話をしてくれた大使夫人は、伸子がニューヨークから帰って挨拶に行ったときは病気中だからといって会わなかった。この夫人の良人であった大使は、ペテルブルグから日本へ帰ったとき、新聞記者の問いに答えて、当時ケレンスキー内閣のあったロシアに別の革命はおこらない、と予想を語った。ところが十月革命は、それからほんの半年ばかりあとに成就した。伸子はそのとき、大使というような事情通が、こんな大事件について実際にはわかっていないのに実にびっくりした。それらのことがまざまざと思いおこされた。それは、伸子のニューヨーク行きさわぎの一年ばかり前のことであったが。――
 こんどは計らず藤堂駿平の一つの力をかりることになった。藤堂駿平が面白い小説をかくようにという、それにたいして返答に困った伸子のこころはソヴェトの未知の生活のなかで、どんなに震盪《しんとう》され、動いてゆくのだろう。伸子自身にもそれはわかっていないことだった。
 藤堂駿平にいわれたとおり、なか一日をおいて、伸子と素子とはつれだってソヴェト大使館へ行った。門を入るとすぐ植ごみがあって、その左手の高みに小公園のような内庭があった。そこのベンチに、秋の午前の日光に白く見えるほどブロンドの髪をした若い女がかけて、よちよち歩きの幼児を遊ばせていた。ソヴェト大使館には警視庁の私服の刑事がはりこんで、出入りする日本人を見はっているという話があり、伸子と素子とは、漠然と緊張した気もちで、人影のない植ごみの横の事務所のベルを押した。戸が内側へあいて、若い、つやつやと光ったまるで真新しい麦わらのように新鮮な感じの館員が出て来た。用むきをきくと、一旦ひっこんで、伸子たちは構内にある文化聯絡協会の事務所へ行ってパルヴィン博士に会うように、ということだった。
 二人は、植ごみをまわって、そのかげに一区画別棟になっている木造洋館の玄関へ行った。日本の女中らしい女がとりつぎに出て来て、伸子たちは、応接間にとおされた。やや古風でくすんだ壁紙のはられたその広間の中央に大形の円テーブルがあって、その上に、家庭的な展覧会というように、ソヴェトから刊行されている種々の雑誌、新聞、書籍が並べられている。その奥の、もっとうす暗い、どっさり額のかかった室から、背の高さも、腹の太さも見上げるばかり大男のパルヴィン博士が出て来た。腰をかがめ、小人にあいさつするように伸子たちに握手した。灰色の上にすこし黄がかってドロリとした大きな二つの眼が愛嬌の笑いを下まぶたのしわにまでたたえながら二人の女の上にすえられた。伸子はその眼をみると、頭のどこかがジーンとするような途方にくれた気がした。霜降りの背広をきて、話のあい間には、両方のひじをふりひろげるようにもみ手をまじえるパルヴィン博士に、主として素子が日本語で旅行についての計画を話した。パルヴィン博士は、ロシア語と日本語とちゃんぽんに話し、素子に向って、
「あなたのロシア語は正しいロシア語です」
と日本語でいった。
「あちらに行けば、発音はじき立派になりますです」
 そして伸子をかえりみ、
「あなたは? ロシア語わかりますか?」
 ちょっと、名刺の面を見て、
「サッサさん?」
といった。
「わたくし、ロシア語はできません」
「しかし、サッサさんは英語話しますから不便ないでしょう」
 素子が、いそいで、とりなすようにいった。
「そう、ソヴェトでもこの頃は英語がはやっていますからね」
 パルヴィン博士は素子に、ロシア語をどこで勉強したかということや、誰が教授だったかときいた。そこへ、物かげになっているドアのところから、洋装した一人の日本婦人が出て来た。非常に小柄で、やせて、小骨の多い小鳥のようなからだつきだった。パルヴィン博士が、
「わたしの奥さんです」
と紹介した。
「どうぞよろしく」
 夫人は、スカートの前に両手をそろえて、ごく日本風のお辞儀をした。毎日あらゆる種類の人々を応待し、観察し、それを仕事として暮している婦人らしい笑顔と身ぶりで、夫人は博士のわきにかけた。この夫婦がならんでかけた光景は現実ばなれがしていた。灰色の大きい眼玉が黄色っぽく溶けかけている巨人のような外国人の主人。やせて、小さくて、軽くて、油断のない鶸《ひわ》のような日本人の細君。背景をなす部屋のつくりが、がっしりとして宏大なために、夫婦の対照はひとしお目にたった。
 パルヴィン博士は、
「ヴィザ、じきおりるでしょう」
 そういいながらなぜかちょっと、傍の小さい夫人の方をみた。夫人は、にこやかな表情のまま、大きい良人の方は見ないでうなずいた。
「一週間もたったら出来るでしょう。そう思います。そのときおいで下さい」
 博士の住んでいる茶色の別館を出た伸子と素子とは、互にひとことも口をきかず、ゆっくり大使館の門外へ出た。ろくな街路樹もない歩道をしばらく歩いて一軒の文房具屋の前へ来たとき、
「ぶこちゃん、ちょっとまってくれ」
 素子が立ちどまって、たてしぼの単衣羽織をきた袂からタバコ入れを出した。
「ともかく一服しなくちゃ!」
 あんまりそれは実感に迫ったいいかただった。
「まったくね! あなたは、こういうとき、そういうものがあるから本当にいいわ」
 そういいながら、伸子は商店の並んだその街上を見まわした。
「でも、歩きながらじゃ変だから……」
 正午近い電車どおりのむこう側で、坂の下りかかりに色のあせた藍縞の日よけを出した一軒の喫茶店があった。
「あすこへ行きましょう、どんなとこでもいいわ。かけられさえしたら――」
 素子は、まちきれないように、白ペンキをぬったその喫茶店のドアの内へ入るなり、マッチをすって、タバコへ火をつけた。

 旅券の裏書ができれば、だいたい一ヵ月ぐらいのうちに出発しなければならない規定だった。伸子たちの旅行準備は、トランクを買うことから旅行のための服装の仕度まで俄に現実のこととしてせわしくなりはじめた。毎土曜日の午後やっていたロシア語勉強も、二人が大使館へ行った翌日で、おしまいにすることになった。素子は、課業をはじめる前いつもどおり帳面と本とを並べている浅原蕗子に、
「浅原さんいよいよきょうでおしまいですよ。ヴィザが一週間位のうちに出来るらしいから」
といった。
「ほんとですか」
 蕗子は、いつものおとなしい声はそのまま、眼を大きくするような表情をした。そしてもう一度、
「ほんとですか」
と、念をおすように、同じ長椅子に並んでかけている伸子をかえりみた。
「こんどは、たしかそうよ」
 伸子は、きのう自分たち二人がパルヴィン博士のところでどんなにのどのかわくような思いをしたか、ということを珍しい夫婦のくみあわせと一緒に話した。
「そうですか、では、たしかでしょうね」
 蕗子は分別らしくきいていた表情を次第にゆるめて、もちまえのゆったりした善良な顔になり、
「いいこと!」
 十分の羨望をあらわして、伸子の肩へ自分の肩をうちあてるようにした。
「でも――どういうことになるのかしら」
 伸子は、うれしさとあてどなさのまじった顔つきでいった。
「なにしろ、これじゃあね」
 草色の表紙を開かれているベルリッツの「外国人のためのロシア語」は、そこに「停車場で」という見出しの頁をあけ、われわれは、赤帽をよばなければなりません、というような単純なことを教えているのであった。
「ともかく、いっていらっしゃいませ」
 首をかしげた蕗子の、ぽってりとして若い顔の上を、ほほ笑みと涙とが瞬間に交錯して走りすぎた。
「二三年でしょう?――そのうちには、わたしもしっかり勉強して、役に立つようになっていますからね」
 蕗子は、素子が勉強した大学の露文科へ入学することにきまっていた。
「あなたは心配ないさ。それだけ真面目にやっていれば、大丈夫ものになりますよ、ワーリャさんも熱心だってほめているもの」
「…………」
 蕗子は、伸子たちがいなくなってからの自分の生活の思いにとらえられたように、細い青桐の葉が茶色になっている隣家の生垣の方へ目をやっていたが、小声のひとりごとのように、
「ロシア語ばかりじゃあなくね」
とつぶやいた。うっとりした唇からもれたようなその言葉の調子に伸子の心がひかされた。
「なにをしようというの? ロシア語のほかに――」
 蕗子は急に目をさまされたような様子でしばらく伸子をみつめた。そして、また人なつこい小声で、
「いろいろあるでしょう?」
 小首をかしげてそういった。しかしそれぎり、気をかえたらしく蕗子ははっきり坐り直した口調になって、
「わたしにどんなお手伝いができるでしょうか」
 素子にきいた。
「おっしゃって下さい。出来ることでしたらなんでもよろこんでいたしますから」
 伸子たちはすぐにも、家の始末にとりかからなければならなかった。それには、まず本のかたづけが一仕事であった。
「こんどは、ごく信用の出来る人だけにたのみますよ。この前ここへこして来るときみたいに、あんな大切な本とられたりしちゃたまりゃしない」
 老松町からこの郊外の家へ越して来るとき、一二度遊びに来た学生が手伝った。その青年がかたづけながらひろげて見ていたモスクワ芸術座の立派な写真帖が、あとからどうさがしても見えなくなっていた。そして、その学生は、もうそれきり素子のところへ出入りしなくなった。
 課業が終ってから、素子は、
「いそがないんなら、夕飯をたべていらっしゃい」
と蕗子をさそった。
「あなたが使うようにのこしておく本なんか、そろそろ選んでおかなけれゃ。こんなときは、あとへゆくほどごたつきますからね」
 夕飯のできるまでと、伸子は、いつも電話をかけている停留場わきの酒屋へ出かけた。そして、本をつめて、動坂のうちの土蔵にあずかって貰うためのビールのあき箱を、十個ぐらい註文して来た。帰ってみると、ロシア語関係の辞典類をすっかりひとまとめにして積み上げた卓の前に、素子と蕗子が一服していた。入ってゆく伸子を見上げて、
「こまっちゃったよ、ぶこちゃん」
 素子が、辞典のつみ重ねを目でさした。
「――これだけで一荷物だ」
「ダーリのようなものは、かえってむこうではいらないんじゃないでしょうか」
 そういう蕗子の注意で、素子は大判の幾冊もある百科辞典風の大辞書をとりのけた。
「ぶこちゃんの本は、どの位になるかい」
「さあ」
 伸子は、まだ揃えてなかった。歴史の年表。日本の辞典。簡単な日本と世界の文学史。そんなものの必要はすぐわかった。け
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