のおじさんを囲んだ。しかし、少女たちはそこに立ったまますぐたべたりしないで、行儀よく、おでんを買った皿や小鉢をもって、また建物の中へ戻って行った。伸子が、子供だったころは、その工場のビンを一杯並べた仕事場の入口に佇んでながいこと見物していても格別おこられもしなかった。インクが紺色だから、そこで働く小さい女工たちも肩上げのきものに紺の前かけをさせられているにちがいない。
外国へ行こうとしている伸子の心には、見なれたその通りの夕暮の光景や、ゆきちがう小さな女工たちの姿が永年見なれている界隈の生活だけに印象ぶかく迫った。
その通りをもっと広い大通りへ出た角に交番と赤いポストがあり、佐々の家は、じきそのはす向いの奥だった。伸子がもうすこしで大通りへ出きろうとしたとき、まだ見えていない佐々の家の門のところで、きき覚えのある自動車のクラクソンが鳴った。それをききつけて、伸子はちょっとうれしそうに眼をうごかした。よかった、丁度父も帰って来たところだ。そう思って、もう車が入ってしまった門の道を行った。
つきあたりの玄関のところに、三四人の人の姿が見え、混雑している。伸子は、遠目にそれを見て、はっとする気がした。ごたついた玄関の様子で、父が加減でもわるくして帰ったかと思った。いそぎ足で車まわしのところへ来たとき、踏石から玄関の間へあがってゆく白い足袋が見え、鶯色の単衣羽織の裾がちらりと目を掠めた。その車で帰って来たのは、多計代であった。伸子はとっさに、一人で来てよかった、と思った。
玄関のところに、車から出した手提袋やトランクがのこっていて、踏石に父の靴もぬぎすてられてある。伸子は、膝かけをたたんでいる江田に、
「一緒におかえりになったの?」
ときいた。
「はい。旦那様も上野駅へまわってお迎えしてかえりました」
多計代は着いたなりの服装で食堂のいつもの場所に中腰で、早速大きいコップにレモンの切れの浮いた水をもって来させているところだった。多計代の帰京は急なことだったらしく、うちじゅうに特別なざわめきが感じられた。
「おかえりなさいまし……クラクソンが角のところできこえたわ」
伸子は、そういいながら、母のわきに自分も中腰になった。
「じゃあ知らなかったの?」
「しらなかったわ」
「――あした隅田さんの御婚礼にどうしても出なけれゃならないもんだからね。急に帰って来たってわけさ」
多計代は、しばらく会わなかった伸子を、しらべるように上下に見た。
「どうしているの?」
「――きょうは、ちょっとお願いがあって来たところだったの」
「へえ……」
父ひとりのつもりのところへ伸子が来て、何をたのもうとしたのだろう。多計代は、あらわに、そういう表情をした。
「何の御用かしらないけれど、わたしは、ちょいと着物を着かえさせてもらいますよ」
いれちがいに、響く足音をたてて、兵児帯をまきつけた泰造が入って来た。
「どうです!」
伸子に向って、泰造は握手するように手をさしのべた。
「たいしたことになったじゃないか」
黙ってさし出された父の手を執って、伸子は甘えるような、ばつのわるいような笑顔をした。電話口で父とその話をしたとき、それからあの角でクラクソンの音をきいたときまで、伸子は自然な亢奮でよろこび、素晴らしいでしょ? お父様。だから行けるようにしてね、という心もちで急いで来た。多計代が偶然かえり合わせたことは、伸子の単純だったこころもちを複雑にした。
「それで、どういうことになってるんだい?」
「旅券はおりたの。裏書だけのことなんだけれど……」
「それゃ早速、あした藤堂君のところへ行ってみよう。お前も一緒においでなさい、その方がいい」
そこへ、多計代が戻って来た。
「どこへいらっしゃろうっていうんです?」
坐りながら、
「お父様、あしたは隅田さんがあるのをお忘れになっちゃ駄目ですよ」
「あれゃ午後五時からだ。こっちは午前中にすむよ――伸子がロシアへ行こうっていうんだ」
「――ロシア?」
多計代は、その三つの音を、ながくながくひっぱって発音した。そして、ほとんどうさんくさい、という眼付で伸子をかえりみた。なめらかで色つやの美しい多計代の顔に浮んだその表情をみると、伸子はせきこむような苦しい思いになった。早口に、
「文明社から出る全集のお金で行くことになったんだから、その方は心配して頂かなくていいの」
と云った。
「旅券の裏書のことで、お願いに来たのよ」
「へえ……」
まだ半信半疑という目の色で、伸子を見ながら多計代はダイアモンドの指環のはまった手で自分の鼻のわきを撫でるようなしぐさをした。
「――それで……いつ立とうというの」
「それゃ、裏書ができしだいだわ」
「もちろん吉見さんも一緒なんだろう?」
伸子が口を開かないうちに、泰造がわきから、
「それゃそうでなくちゃ、伸子が困りますよ」
と云った。
「あのひとはロシア語が専門なんだろう」
「ええ。吉見さんは事務所の方へ伺いますって。よろしくって……」
多計代は、黙って考えていたが、
「まあ、伸ちゃんも、そうやって自分の力で行けるというなら、どこへ行くのも御自由だし、いろいろのところへ行ってみるのもためになることなんだろう。それゃ結構だけれどもね……」
一転して、多計代は事務的な調子で、裏書について、伸子が父に求めている援助の内容をきいた。
「なるほどね、それで大分話がわかってきた……なんだろう? その裏書のことでは、吉見さんの分もいるんだろう? どうせ伸ちゃんのことだから……」
「両方出来なくちゃ意味がないわけよね」
「お前、吉見ってひとの責任まで負えるのかい? あとで困ることになりゃしないのかい?」
「困るって?――」
「吉見なんていったって東京じゅうに知っているものなんざ一人もありゃしませんよ」
吉見素子が、伸子の旅費も出来たら自分で工夫しようとしていたと知ったら、多計代はそれにたいしてなんというつもりだろう。伸子は、腹のたつ気持を抑えたぎごちない低い声で、
「お母様の世間だけが、世間のすべてでもなさそうよ」
と云った。
「お金のことでいうんなら、吉見さんのうちの方がよっぽどお金持かもしれないわ、吉見さんは自分のお金で行けるんだから」
「なにもお金のことばかりいってやしませんよ」
多計代は、自分の息子や娘の友人にたいしていつも警戒的で、下目に見る習慣があった。さもなければ、保の友人の東大路の場合のように、何かの偶然で有名なその家族の名前に盲信した。だから、和一郎の友人にしろ、保の友達にしろ、その年頃の若い者らしく溌剌と自由で、まともなつき合は佐々の家庭のなかまでひろがらず、例外のように出入りしつづける若者は、多計代のそういう態度に反撥しないような人柄だった。そういうことに潜んでいる和一郎や保にとっての人生的な危険を、多計代は全く気づこうとしないのであった。佃がどういう性格であったにしろ、多計代からこうむった侮辱は度をこした。そのことのために、伸子は佃を気の毒に思わずにいられなくて、自分が妻として佃にたいして抱く苦しさの解決さえもかえってのばしのばしした。
「お母様、ほんとにいつになったら、自分の娘を一人前と思えるのかしら……友達を信じないってことは、娘を信じないことなのに――」
多計代が、いいつのろうとする機先を制して泰造が、
「いいじゃないか、多計代。よろこんでやって、いいじゃないか」
といった。
「あんな小さい赤ん坊だった伸子が、こうやって一人で外国へまで行くようになったんだ」
多計代は、その言葉で感傷を動かされ、しばらく黙った。
「それゃ、わたしだって、よろこんでいるんですよ。それにしてもね」
「吉見、だろう。そう拘泥するもんじゃありません。お前だって伸子一人遠くへやるより、ああやって一緒のひとがいる方が、どんなに安心だかしれないじゃないか」
「…………」
多計代の釈然としない理由は、伸子によくわかった。多計代の心には、この旅行についても素子が伸子をどこかで利用しているにちがいない、と思いこんでいるのだ。
伸子のために、便宜があればそれにこしたことはないが、吉見素子がそれにあやかることは不本意だが、大目にみておくという表情を、ありありと顔にうかべている多計代に玄関まで送られて、翌日伸子は父と藤堂駿平の邸へ出かけた。
麻布の天文台のそばで門の石塀のそこまで葉を落した桜の枝がさし出ている。三人の取りつぎがどれも男ばかりの案内で、応接間にとおされた。近代風の洋式客間で、明快な色調の広い部屋だのに、一方の壁に床の間めいた高いところがこしらえてあって、そこに日本画のかけものと、紫檀の板の上に香炉がおかれている。伸子は、政治家というものの客間を珍しく見まわした。じき、
「やあ」
といって、和服姿にスリッパをはいた藤堂駿平が現れた。
「ようこそ」
はじめて会う伸子に会釈した。有名な鼻眼鏡の黒リボンと、くさび形のあご髯の間から見えている藤堂駿平の皮膚は白くて、濶達な身ごなしだった。
泰造が、全く友人同士のようでありながら、どこか微妙なニュアンスで自分との間に差別をおいている話しかたで用件を説明した。
「ほう。なるほど。――それぐらいは、むずかしいことでもなさそうだ。ようござんす」
藤堂駿平はわきにあるベルをおした。伸子たちをとりついだ少年が来た。
「今井君にちょっと」
秘書の一人らしい黒い背広の男が入って来て、丁寧に礼をしながら、そこにかけている泰造と伸子との方をひとわたり見、いそがず藤堂駿平のそばへよって行った。
「このお嬢さんが、お友達と二人でソヴェトへ行かれるんだそうだ。それについて一寸……」
あとは、はなれた椅子にかけている伸子にきこえない打ちあわせになった。深いひじかけ椅子に背をもたせかけて、鼻眼鏡の顔をあおむかせ気味に何かいう藤堂駿平の方にこごみかかって、
「はァ」
とか、
「それは出来ますでしょう」
とか簡単に答えながら、秘書はそれとなく眼を動かして、ちょいちょい伸子の方を見た。
「じゃ」
「…………」
秘書が一礼して出て行くと、藤堂駿平は、
「お嬢さん、明後日あたりでも、大使館へいらっしゃい、わかるようにしておくから」
といった。そして、膝の前におかれている小卓の箱から葉巻を出して、その先をきり、火をつけ、くゆらしながら、一層深く椅子の背にもたれこんで、
「日本の婦人たちも、どしどし外国へでもどこへでも行くようになってくれなくちゃ仕様がありませんな」
と云った。
「三浦環なんかにたいして、どういうものか日本人は冷淡だ、悪口をいう奴さえある。あなたも広いところをみて、しっかり面白い小説をかいて下さい」
いつか伸子に反物をおくってくれた老母は、じき喜の字の祝いで別荘に暮している。そんな話もあって、泰造と伸子とは四五十分で藤堂駿平の邸を出た。
「どうもありがとうございました」
自動車が麻布の通りをいい加減進んだとき、伸子は父に改めて礼をいった。
「ほんとに一安心したわ。――でもなんて、簡単なんでしょう」
「なにが?」
「いろんなことが――ああいう人たちって、あんなになんでも簡単にいくのかしら……」
「まあ、簡単にゆくところがあるだけ、一方でたいしたところもあるだろうさ」
「――お嬢さん、お嬢さんていうんだもの」
伸子は苦笑した。しかし泰造は案外真面目で、
「だってお前はミス佐々じゃありませんか」
と云った。
「それゃそうだけれど……」
お嬢さんとよばれることに、伸子はミスという意味よりもっとちがった内容を感じるのであった。面白い小説をかいてくれ、といわれることにも、返答にこまる心持がした。藤堂駿平が、在来の政治家と非常にちがった自由な寛濶な雰囲気をもっていることは伸子にもわかった。けれども、ああやって堂々として椅子にかけて話しているときの、近いようで遠い、わかったようで全く互にわかっていない感じは、何と変だろう。
伸子は、はたちのとき父につれられてニューヨークへ行った。その仕度の時のことを思いおこした。子供の時しか洋服を着てい
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