決しそうになった。
 そこへ素子が外出さきから戻って来た。
「おや、これは珍らしいお客さんだ」
 素子が椅子にかけるとすぐ、伸子は、
「もっと珍らしいことがおこったわ」
 全集に一冊加えて、伸子の旅費が出そうなことを話した。
「それゃよかった。企画としたって、あれだけ揃えるなら、そういうものも一冊はあるべきですよ」
 素子は、ちらりと皮肉な笑顔をして、木下にウェストミンスタアをさし出しながら、
「でも木下さん、大丈夫ですか、あなたの一人合点で。――殿様はそうおっしゃいましたそうですが、と、あとから御用人が出るんじゃないんですか」
「相かわらず辛辣だなあ。――そんなことはない。大丈夫です。必ずひきうけました」
 数年前、アメリカへ行ってしまっている村田壽子と素子は、昔、親しいつきあいがあった。素子が村田壽子の作品を選んで決定することになり、伸子は自分で、一番はじめに発表した小説と、最近単行本になりかかっている長篇とを入れることにきめた。
「それぐらい具体的になっていれば結構だ。じゃ、ひとつ楢崎さんの方へは、直接社から話させますから」
 木下が去ったあとしばらく、伸子は、焦点のちったような視線を、テーブルの上に出ている灰皿の上におとしていた。
「ぶこちゃん! しっかりしてくれよ」
「だって、あんまり思いがけなくて……」
「ものがまとまるときってものは、こういうもんさ。だが、よかったね」
 旅費のことで伸子はあんなに途方にくれ、思案にあまっていた。たかが金のことだのにと思う、その金に目あてがつかなかった。木下が、偶然彼自身の屈託からふらりと伸子の家の前で自動車を降りた。小さなきっかけがかさなって、にわかに伸子の旅費の問題も展開した。伸子としては、仕事に立って手に入る金で筋が通ったものだった。
 けれども、木下がなにかの気分のこじれで、伸子がそのときの調子でなに心なく云い出した話にとりあわなければ、少くとも、こういう工合で金が出来るようにはならなかっただろう。気分や偶然が作用していると思え、伸子として一生懸命な問題であっただけ、そのことで滅入った。
「なにを、そう拘泥する必要があるのさ」
 素子が云った。
「ひきうける以上、さきだってちゃんとそれだけの目算をもってやってることじゃないか。そんなことを考えるなんて――逆のうぬぼれ、だよ。誰が気分だの偶然だので、動くもんか」
 外出のなりのまま素子は、タバコをふかしていたが、
「ぶこちゃん、散歩に行こう!」
 さきに立って玄関へおりた。
 伸子は紫メリンスの前かけをかけたままついて出た。門から右手へつづいているだらだら坂をのぼりきって、この郊外の分譲地の中央通りにあたる桜の並木道を、左へとった。高い外壁に蔦のからんだ洋館だの、しゃれた鉄のすかし格子の見える上り口の様子だのを眺めながら、秋めいた午後三時の透明な光線に梳かれている桜並木をぬけた。並木を出はずれると、もう畑で、からりとした秋日にてらされて、ゆるやかな起伏をもった耕地や、遠く近くところどころに点在する雑木林がひろびろとあらわれた。伸子と素子とは畑の間の草道を、浅い雑木林のある方へと向った。大根畑があり、唐辛子が色づきかけており、大気の中には草木のみのる香りと午後の日光にあたためられた強壮な下肥えのにおいが漂っている。草道へ出ると、伸子は歩きながら秋の野草の花をつんだ。太い赤まんまの花や紫苑《しおん》のような紫の野菊を。そうやってつまれるこまかい野の花々は伸子のこころを鎮め、広い地平線の眺めは伸子の目路《めじ》をはるかにした。伸子は、だんだん、気分が落ちつき、そして、うれしくなって来た。うれしさが、はっきりして来た。花をつむために、数歩おくれていた伸子は、かけるように素子に追いついた。そして、
「なんだかうれしくなってきた」
と告げた。小声でそう云ったら、一時に、どっとそのうれしさが呼び出され、こみ上げて来たようで、伸子は活溌な勢のいい足どりになった。うたが歌いたくなった。本当に、行ける! 行く。――その思いは、遠くに森の見える地平線や、高い空で白く光っている雲にまで響くようで、伸子は、
「ね、ね」
と素子の手をひっぱった。素子と伸子とは、うれしさが明瞭になるにつれ、元気が出て、大股にどんどんと畑の間の道を歩きまわった。一つの丘の裾をめぐって下り、小さい川に、かけられた丸木橋をわたった。そのまましばらく行くと灌木のしげったかげに木の柵のある農家の横へ出た。そこはいつか、竹村の温室をみにゆくとき通った鵞鳥のいる農家だった。
「あら、こんなところへ出てよ!」
 面白そうに伸子が立ちどまった。きょうは、どうしたのか鵞鳥はいず、柵の上にまたがって二三人の男の子が遊んでいた。草道を足音もしないで来て急に灌木のかげから現れた二人の女たちを見つめて、子供たちはじっとしていたが、その柵を通りすぎてしばらくすると、うしろから、
「ヤーイ狐の嫁入り!」
と、はやしたてた。
 ぎらつく日のきらいな伸子が、白い大きなハンカチーフの端を髪の上にかけ、つみ集めた花をもっていない方の手でかつぎのようにもう一つのはしをもって、西日をよけながら歩いているのであった。

        二十五

 旅券が下附されて、ソヴェト大使館の裏書がとれるまで、伸子は旅行のことについて動坂に知らすまいと思っていた。
「ぜひ、そうしましょう。さもないと、あんまり騒々しくなっちゃうから、ね」
 多計代がこういうことを知れば、たちまち賑やかすぎることになるのは必定であった。
 この予定は、或る日素子が、
「ぶこちゃん、厄介なことになりそうだよ」
と、当惑げな顔つきでよそから帰って来たことで、番くるわせになった。素子がきょうソヴェト関係の記者である友人にあったら、伸子と素子との裏書は、そう簡単にかかれないかもしれないと注意されたのだそうだった。
「――どうして?」
「どうもはっきりしたことを云わないからよくわからないんだけれどね、われわれの素姓《すじょう》を、むこうじゃ信用しないという意味らしい」
「素姓って……」
「なにものか、と思うらしいのさ」
 伸子は、ありえないという表情で、
「おかしいじゃないの、ちゃんとわかっているじゃないの」
と云った。
「あなたは翻訳家だし、わたしは作家だし……どっちもきのう開業したわけでもないのに……」
 素子は、赤いすきとおるパイプを口の中でころがしながら、考え深い眼つきでしばらく黙っていたが、少し声を低くして、
「政治的な意味があるんだね」
と云った。
「案外、諒解が必要だ、というようなことなのかもしれない」
 ソヴェト革命記念祭のお客に、日本から国賓が招待されたとき、その人選や連絡のために斡旋した文化連絡員がいる。素子はその外国人の名をいった。
「それゃ民間の女でゆくのは、私たちがはじめてなんだから、一応面倒なのもわかるけどね」
 きいている伸子は、次第におこった顔つきになって行った。
「わたしたちが、もしいわゆる無産派でないからっていうなら、それこそ馬鹿らしいことだと思うわ。そういう立場でさえあれば、すべて素姓がたしかだとでもいうの?」
「しかしね、ぶこちゃん」
 いつもに似合わず、素子の方が沈着に、亢奮している伸子に向っていった。
「無理のないところがあるのかもしれないんだ。むこうとすれば、そもそも日本というものにたいしては用心ぶかくなるわけもあるだろうしさ」
 そういわれれば、伸子にもわかるところがあった。日本の政府は一九一七年からシベリアへ出兵して、ウランゲルやコルチャックとともに、ふるいロシアがソヴェトに変ってゆく道を妨害しつづけた。国交が回復したのは、伸子たちが老松町からその郊外の家へ引越して来た時分のことであった。そういう角度からみれば、伸子たちが通り一ぺんの手続で裏がきを求めて提出してある旅券が、何とはなし積極的になれない手にとりあげられ、うちかえして眺められているという状態も推察された。
「わたしたちの立場というものを、ありのまま出して、しかしやっぱり無いよりはましという風な紹介者があると一番具合がいいんだがねえ」
「そうだわ、もし紹介者がいるんなら、そういうのでなければいけないわ」
 伸子は、もとより自分の身辺にそういう外交上の響をもつような知人をもっていなかった。自然父の知友の間に物色するわけであったが、役所がきらいで民間の建築家になった佐々泰造が官僚の間にそういうときに便利な友人をもっているようにも思えない。考えまどっていて、伸子は、ふっと一つのことを思いあたった。
「ね、カラハンが来たときね、日本側の代表でいろいろやったの、藤堂駿平だった?」
「そうさ」
「――それだったら、もしかしたら何とかなるかもしれない」
 十年も昔、伸子の小説がはじめて雑誌にのせられたとき、それを読んでといって、少女だった伸子に一匹の反物をおくってくれた老婦人があった。同じ錦紗でも手にとってみるとしっとり重い上質で、大まかに麻の葉の紋柄が浮き出ていた。その布地は、ひどく伸子の気に入り、さっぱりした薄紫にそめて着た。あとで、それを黒にして、いまもその羽織は愛用している。その反物をくれたのは、藤堂駿平の母で、七十になっていても、本をよむのを日課にしているという老夫人だった。伸子は、その御礼のことで多計代といいあらそったのを覚えている。多計代は折角もらったものだから、着物にして着てよく似合うところを見せに行くべきだといい、伸子は、そんなことはいやだ、とあらそった。
「お母様、もしこの反物を、ほかのどっかのおばあさんがくれたとしても、やっぱりそうおっしゃる? 藤堂駿平が男爵でなくても、そんなにおっしゃる?」
 伸子は、
「そんなにむずかしいものなら、着ない」
 そう云って、本当にそれが仕立てあがった冬は着なかった。
 藤堂駿平と佐々泰造とは、公式なつき合いばかりでない交際があるらしいことも、伸子は思い出したのであった。
「わたし、ちょっときいて来てみる」
 伸子は、郊外電車の停留場のわきにある酒屋から、佐々の事務所に電話した。
 勢いこんでかえって来て、伸子はすぐに縁側にまわった。
「よかった! 何とか考えましょうって――今来るようにって……」
 多計代は東北の田舎からまだ帰っていず、父ひとりの動坂の家を思うと、伸子は、素子を誘ってゆくにいい折だと思った。
「一緒に行かない?」
 旅券のことについて父にたのむのは、伸子の分ばかりでなかった。素子も行って会えば、たのまれる父の気持もよかろう。伸子は、そう思ったのであった。
「さあ……」
 素子としても、同じように考えるらしく、行ってもわるくなさそうにしていたが、
「まあ、やめとこう」
 皮肉な苦笑を浮べた。
「お母さんの留守には来るんだね、なんていわれちゃ、ちょいと癪だからね」
 伸子たちが老松町の家に住んでいたとき一二度、それからこちらへ越して来てからも二度ばかり、多計代が訪ねて来たことがあった。和一郎をつれたり、つや子をつれたりして。そのときは、素子も仕事をやめて一行をもてなした。けれども、多計代は、一度も改まって娘と一緒に素子を動坂の家へよぶことはしていないのであった。
「わたしは、いずれお父さんの事務所へでも伺うから、よろしくいっておいとくれ」
 秋の夕暮れらしい渋谷の雑沓のなかを、伸子は気をせいて、二つの電車をのりかえ、家のある高台に向う坂道をのぼって行った。その横通りには、昔から屋敷の間にはさまって、日本橋の方に店をもっている有名な書籍文具店のインク製造工場があった。丁度そこがひけどきで、小さい銀杏がえしや束髪にした少女の女工たちが、伸子のゆく細い道を群れて来てすれちがった。昼ごろには、その細い道に向って開いた工場の門のよこてに、年よりのおでんや[#「おでんや」に傍点]が屋台車をひいて来て止っているのをよく見かけた。すると工場の中から、かたあげのある紺木綿の筒袖をきて、同じような紺木綿の前かけをかけた少女の女工が、てんでに皿や小鉢をもって、椎の大きい枝の下に店を出しているおでんや
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