間にあらわれる。その細いきたない水の幅は刻々にひろがり、やがて岸壁に立ってこちらをみている見送人の群集は、顔がみわけられないほど小さく遠くなって、船客は本当にひろい海上に出た自分たちというものを感じるのだった。
伸子は自分が、きょうまでの生活の岸壁をとうとうはなれたことを感じた。岸壁の上にはくっきりとまだ実物大で動坂の家の生活が見えていた。友人たちの生活も。そして、自分たち自身の生活さえ。しかし、そこにはもう決定的な水幅があらわれている。――動坂の生活が伸子自身の生活でなくなってから幾年もたっていて、伸子が外国へ行って暮していようと、この郊外の家で生活していようと、動坂の日々は動坂の家なりに転廻してゆくのだ。友達たちの生活も。けれどもそうして生活の輪がまわるすき間から見えがくれして伸子の心をそこにひきつける一つの顔があった。もみ上げや鼻の下に和毛のかげをもった保のぽってりした少年ぽい顔である。その顔は、心の内にあんまりどっさり云わないことをもちすぎていて、そのためにまぶたが重いような表情で、時々クンと鼻をならし、二十歳になったからだにあわせてはちいさくなっている高校の制服のズボンが古びて光る太い膝をゆすっている。家族のみんなから愛され、真面目なことで一目おかれながら、実はあんなに孤立している保。佐々はバカだ、生れつきの調停派だと、同級生にいわれている保。――
伸子は、ふっくりした手の甲を頬っぺたにおしあてて、うらがえしの頬杖をついたまま思い沈んだ。
「どうしたのさ」
「…………」
「何がまだあるのさ」
「――保のことが気にかかって来たの」
「……だって――それなら、ゆくのをやめられるかい?」
「もうやめられない」
伸子は答えた。
「――だから気になる」
素子は現実的な判断のよりどころを与えるように、
「あのひとは、君をたよっちゃいないよ」
早口にはっきり言った。
「そうなの。あのひとはたよるものなんかもつのは間違っていると決心しているのよ。そして、わたしは自分があのひとのたよりにならないことも知っているわ。だから気になる」
姉が外国へゆくときめたことを知れば、保は、おそらく自分のこころもちは何にもあらわさず、それに賛成し、必要なことを手伝ってくれるにきまっていた。でも、保のこころのうちは、果してそれだけだろうか。うれわしげに頬杖をついている伸子の顔を眺めながら、素子はそのまましばらくタバコをふかしていたが、やがてきめた以上はそのようにという風に、
「さて、いよいよ旅費が問題だね」
ときりだした。
「名案はないものかな」
伸子のきもちは保から実際問題にうつされた。
行こうという決心がかたまりかかるにつれて、伸子も当然旅費のことは考えた。この旅行は、はじめっからしまいまですっかり自分のものとして経験し、どういう結果についても掣肘《せいちゅう》をうけたくない気持がした。伸子は、どうしても自分の力で、旅費をつくらなければならなかった。そのためには、新聞社や雑誌社と契約して海外特派員となる方法があった。けれども、伸子にどんな特派員らしい記事がかけるというのだろう。言葉さえろくに出来ないのに、経済だの政治について、なんにも知っていないのに。
「汽車賃ぐらい、あの月がけで何とかなるけれどね」
それは素子が主張してつづけていた、小さな銀行の集金貯金のことであった。
旅費の工面はあてがないまま、伸子たちは、ともかく旅券の申請をした。夏草のもうすがれはじめた庭の軒さきで、かわりばんこに撮った下手な素人写真を添えて書類を出した。下附までには凡そ一ヵ月以上かかるという話であった。それまでに旅費の見当がつくかもしれないというわけだった。
二人がゆくとすれば、この郊外の家は当然たたまなければならない。本や荷物をどこへ預けよう。素子は、日本橋の従弟の店の倉庫と、老松町の、伸子がもと二階がりをしていたお裁縫やへあずかって貰うことにした。伸子の分は動坂へやる。そんな相談が始められるようになったある日、伸子が、長い小説を連載していた雑誌社の社長の木下徹が、伸子たちの家を訪ねて来た。
鼠っぽい夏服をつけた背の低い木下徹は、自動車から降りて来たままの帽子なしの姿で、
「やあ、おられますか」
南国の訛を声にひびかせながら、玄関に立った。
「ちょっと用事があって玉川まで来たもんですからね……なかなか閑静なところじゃないですか」
珍しそうに、女住居に塵のしずまっている家の中や、荒れた庭を眺めた。伸子は、市中のビルディングの一室で、どっちかというと事務的な会いかたばかりして来ている木下を、自分たちのうちの椅子にかけさせつけなかった。とりとめない話の末、木下は、
「やあ、どうもこれでなかなか問題が多くてね」
頭のうしろへ組み合わせた腕をはって、椅子の上で背中をのばすようにした。
「実は、いまもちょっと、迷っていることがあるんです」
雑誌社を経営しながら、その人は代議士に立候補する気があったり、伸子などのしらない政治的な活躍の場面ももっていた。
「木下さんは、気が多いんだもの。問題は多いでしょう。なれているくせに」
「――それがね、こんどのはちょっと大きいんでね」
木下は、柔軟さとがんこさとのいれまじった蒼い角顔をすこしうつむけるようにして、黒い、憂鬱なところのある眼を上眼にした。
どっちみち、本気な話にはならないその問題というのにたいして、伸子はふっと面白いことを思いついた。伸子は改ってきき直した。
「木下さん、本当に、それは重大な問題なの?」
「――私としては重大ですね。少しおおげさにいえば一生の浮沈にもかかわりますね」
「じゃあ、いい智慧をかしてあげましょう」
伸子は立って行って、地袋の写真帖の上から一冊の薄い冊子をもって来た。その表紙には、黄色い地に一平の漫画が色ずりになっていた。
「何です?」
木下は、それを手にとった。
「運命判断……へえ。こんなものが、ここにあるとは思わなかった」
「それは特別なの、実にあらたか[#「あらたか」に傍点]なの。わたしの運勢は、実によく当りました。あなたもびっくりなさることよ」
机の引出しから半紙をもち出して、伸子はそれを、ほそい紙片にさいた。幅一寸ばかりの紙きれを、つばでしめして、鼻の先へはりつけ、その運命判断の、数字ばかり四角いコマに印刷してある見開きの頁の上に顔をさし出してフーオン・コロ・コロのフン、といって、その紙きれをふきとばす。紙片の落ちた数字にしたがって、その項をあければ、そこにその運命判じの漫画の答は出ているというしくみであった。
「へえ……奇妙な占いがあるもんだな」
そう言いながら、木下は鼠色の背広の袖を動かして、自分の鼻さきへ紙きれをはりつけた。
「フーオン・コロ・コロのフー?」
「ええ、そういうの」
そして、紙片が落ちた86という項を開いてみた。そこには、島田に結った若い女が、裾をかかげて、急流のまんなかに行きくれている絵がかかれていた。そして、美人流水の中に立って云々と、おみくじにあるような文句のほかに、くだけた言葉で、いまのあなたには何よりも決断が大切です。躊躇していれば、事態は悪くなるばかり、という風な文句が、その漫画家得意の、禅ぽいいいまわしでかかれていた。伸子は、おかしがって、
「どうです?」
ときいた。
「あらたかでしょう? よその占いなんか、とても足もとへもよれないでしょう」
「いや、全くこれはいいところを当てたですよ!」
木下の言葉の真剣さに伸子はびっくりした。占いなんかをしてみる人の心もちにたいして、最大公約数のような、こんな常識が何か真面目な作用もするというのだろうか。伸子は、思いもかけないという顔になった。そして、
「なにが当ったの?」
ときいた。
「なにがって――ちょっと云いにくいが、ともかくね。いや、ありがとう。大いに得るところがある」
ほんとうに、そうであるらしかった。この鼠色背広のひとには、ちょいとしたなにかのきっかけが入用だったのにちがいない。伸子はそう判断した。
「わたしの運勢はこれですけれど……元日にやったんだから、たしかよ。素晴らしいでしょう」
それは、43という番号だった。勲章をつけて、からのおはち[#「おはち」に傍点]をかきまわす図。そう題があって、その題のとおりの絵がかかれていた。髭をつけ、鳥の飾毛のついた礼帽をかぶった大礼服の男が、板の間に膝をついておはちをかきまわしている。そのおはちの、こちらに見えている内部はからっぽで、一粒の米もなかった。
「ハハハハハハ」
木下はひどく愉快そうに、大笑いをした。
「これはいい。いいじゃないですか」
「そうよ。わたしも気に入っているんだけれど」
伸子は、自然に飛躍した。
「こまることもあるわ。この絵を見せて、わたしはこういう運勢のものですから、よろしくって云ったって、外国旅行はさせてくれないから」
「――そんな話が出ているんですか」
二人にソヴェト旅行の計画がきまったこと。素子は自分で支弁するが、伸子には旅費がなくて、からの旅券下附願を出してあることを話した。
「なんとかならないかな」
「わたしに、小説でない、いろんなものをかけるなら、もちろん、木下さんのところへ相談に行ったんです。無理にだっておたのみしただろうけれども、わたしは、それが駄目だから……言葉も通じないところへ行くんだし……」
どこへ行っても小説以外のものはかけないだろうということを、伸子は、自分の生活上の無力さとして感じているのであった。しかも旅行している何年かの間は、その小説さえたいしてかけまい。そう予感してもいるのであった。
「お父さんに出して貰ったらいいじゃないですか――そのくらい」
「そうするしかなければむしろ行かないわ」
双方とも言葉がとぎれた。やがて木下が、自分の仕事として思い出したらしく、
「あなたが、この間うち連載していた小説、あれはもうじきうちから単行本になるんでしょう?」
と伸子にきいた。
「再校が終ったから、じきでしょう」
またしばらく沈黙がつづいた。よっぽどたって、
「じゃあ一つ、こういうことにしましょうか」
木下が、椅子の上で膝をくみかえた。
「いまうちでやっている全集ね。あれへ一冊、あなたと、楢崎佐保子さん、村田壽子さんと、三人で一冊こしらえようじゃないですか」
「ほんと?」
伸子は、われ知らずよろこびで上気した。
「そういう風に出来たら、ほんとにいいけれど……」
その社で、大規模な明治以来の日本文学全集刊行の事業をはじめていた。尾崎紅葉から現代の新進作家の作品まで網羅されて、一人で一冊の割当てをもつ作家もあり三四人で一冊という割当てのもあった。新聞に大広告が出され、流行の一円本出版の先頭をきっている仕事であった。伸子は、全然自分にかかわりないこととしてそれをながめて来た。婦人の作家では樋口一葉しか加えられていなかった。
木下は自分の発案が、伸子にとって経済上の必要をみたすばかりでなく、刊行の仕事そのものとしても、好い思いつきだと考えるらしく、
「そうしましょう!」
自分に向って確信するように云った。
「全集としても、その三人で一冊ぐらいは、あった方がいいものなんだ。そうすれば佐々さんもいいでしょう、借金じゃないんだから――印税をあげることになるんだから」
「いいわ」
伸子は、思いがけなさで、まじまじと木下の蒼い、まるいようで四角ばった顔を眺めた。
「借金じゃ、わたしに返すのぞみはないもの」
「それゃそうです。――ただどのくらいになるかな、どっちみち本が出るのはよっぽどあとだから……」
木下は、何かの算用をした。
「予約ものってものは、いつもはじめのうちよりは、あとになってぐっと減るもんなんだが。……まあ、一万は出せるでしょう」
「それは三人で?」
「いや一人」
「じゃいいじゃないの。行ける」
「一万はひきうけることにします。あと、何か書けたら送って下さい。それは別に原稿料として払いますから……」
予想もしなかった方法で、伸子の旅費のことは、解
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