うものについて全く無智で暮している場合でも、動かせない現実として存在する。そういうところを読むと、伸子にも、ぼんやりと、リャク[#「リャク」に傍点]に来た青年たちと自分との第三者からみた立場のちがいが、どういうことになるかわかるようにも思えた。伸子は、自分というものが、社会の階級では中産階級という不安定な階級に属す一人の女だということを理解した。自分の仕事をもって、独立の経済で生活しているにしろ、中産階級・小市民という階級に属していることにかわりはなかった。そして、その中産階級というものは、ますます寡頭化してゆくブルジョアジーと勤労階級との矛盾の間にはさまって動揺しており、歴史の発展の中で新しい任務をもちはじめている勤労階級と利害をともにする立場にうつるか、さもなければ、本質的な発展を阻まれたままふるい支配階級とともに歴史のなかに消耗されてゆくしかない階級として、示されているのであった。
「そうなのねえ。だから、動坂でいくら自動車を買って、どうかなった気でいたって、結局のところやっぱり、けちくさいんだわ。大戦で郵船会社が大儲けしたから、建築家だってあのビルディングを建てたんだもの――」
 そう云っているうちに、伸子は建築家である父が、しばしば娘の伸子に向って、依頼者の註文づけが不愉快だと話していたことを思い出した。方眼紙でできている父の手帖には、実際に建てる家やビルディングの設計図のほかに、それを考えているうちに浮んで来たいくつもの架空の設計図が描かれてあった。椅子にかけた泰造が、その膝のところにくっついて低い腰かけにいる伸子の手をとってなでながら、よく、想像(イマジネーション)を発揮しなさい。と、それを日本語でいうより英語でいうと一層そこにゆたかさが思われるようにいうのを思い出した。そういうとき伸子は、
「お父様のイマジネーションずき!」
と笑った。社会のしくみがいくらかわかって、建築家としておかれている父の立場が察しられてみれば、父のイマジネーションずきには、決して実現しない建築家としてのあこがれがひそめられているのを知った。それを思いやらず、無頓著にただ陽気そうに笑っていた若い女である自分の笑顔の上に、伸子は無智からくる厚かましさをみとめた。それは伸子に自分への反感をつよく感じさせた。
 食うための苦労をしたことがないということで、伸子は作品に関してまで悪口を云われて来た。それにたいして食うための苦労をしなくたって、と人間の高まる可能を思いつづけて来たのであったが、今、伸子にはそういう卑俗な、そして、現象からだけ云われている言葉にも、もうすこし違った意味がありそうに思えた。ちがった意味というのは、伸子が勤労階級の生活の中から育ったものでないということ。保の上には、ある程度それを見て、心痛しているその同じ小市民風の考え癖、そんな考え癖の生れる保と、同じ本質の階級の地盤に自分も生活の根をもっている、ということが理解されるのであった。だからいつかのように、どうしても保にシュッ! としたことが云ってやれなかったわけもわかるようだった。
 これらの発見の一つ一つは伸子にとって、自分の無智と無力を知らされることであった。しかし、この自己暴露には身をひきはがすような痛さと同時に爽快さが伴った。
 階級的に発展することだけが、小市民の歴史における正しい生きかただとして、それはどういう風にしておこるだろう。
「あなたにわかる?」
 伸子は、校正をしている素子のわきにくっついて云った。
「相川良之介の聰明に限界があったわけがわかるようでもあるんだけれど――階級的移行って、一人一人にとって、たとえば、あなたやわたしにどういう風におこるんだと思う?」
「ぶこちゃんは、それが生れつきなんだろうけれど、いやんなっちゃうな」
 赤インクのついたペンをもったまま素子はほんとにいやになるようにわきに立っている伸子を椅子の上から見上げた。
「いつだって、こうだ、知ってるかい自分で――こんどだって、あの本見つけて来たのは、わたしだよ。ぶこちゃんは、うちにただ坐ってたんじゃないか。わたしは用で外へ出なくちゃならない。すると君は坐ってそれをよんでいる。そしてどんどん吸収して生長してゆくんだ。いつだってそうだ。わたしがきっかけをつくる、それをわきからとってものにしてしまうのは、ぶこさ」
 素子は、暗い眼でじっと伸子を見すえた。
「そこがおおかた力のちがいというもんなんでしょうがね……」
 奥歯をかみあわせたような辛辣さで云った。
「……わたしは、ぶこに食われるのはごめんだよ」
 なにかいおうとして伸子は唇をすこしあけた。けれども、なんといってよいかわからなかった。暗い素子の視線のなかには、そんなに複雑にそして本気に伸子をつきのけるかげがあった。でも――伸子は素子とのいまの生活に決してすっかり安心しているのでなかった。佃との生活におさまりきれなかったように。佃との生活に落ちつけずにいた伸子にたいして、素子はあんなに積極的に離れてゆく伸子の心を支持した。いまだって伸子は動こうとしている。自分たちの生活として、そして、自分たちの生活の新しい意味を発見しかかっている。素子は、なぜ同感してくれないのだろう。伸子と素子との間のことのようにうけとるのだろう。素子の机のよこからはなれてゆきながら伸子は涙ぐんだ。

        二十四

 ソヴェト同盟の革命十周年記念祭は十月初旬から一ヵ月の間つづく予定だった。それがすんでから、あっちへ着く方がいい。素子はそういう風に計画を立てた。全く個人の資格で、もしかしたら招かれざる客としてゆく女なんかは、そういう騒ぎがしずまってからの方がいい。そういう考えであった。
 九月に入って、素子は本式に旅券の申請手続をとることになった。旅券申請には、下附される旅券にはる写真が入用ということだった。
「厄介だな。うちでとったのだっていいんだろう。何かありそうなもんだね」
 素子は、台紙にはらないスナップ写真を入れてあるカステーラの古箱を床の間の地袋からもち出して、なかみを机の上にひっくりかえしはじめた。伸子は縁側の椅子のところからその様子を眺めていた。素子は、
「丁度っていうのはないもんだな、これは小さすぎるし」
 書類につけて出す写真は寸法もきまっているのであった。伸子は、妙に力のこもった眼つきをして素子が素人写真をいじっている様子を見まもっていたが、やがて、少しつばのたまったような声になって、
「――あたらしくとったら?」
 そういいながら椅子を立って、机のわきへ来た。
「新しくとりましょうよ、かわりばんこに……」
 ばつがわるそうにそう言って伸子はちらりと亢奮した笑顔をした。
「わたしもいるから……」
 素子は、それをきくとさっと顔をあからめた。
「なんだ! ぶこちゃん!」
 そして、たしかめるように、じろじろと伸子を見まわした。
「ほんとかい?」
 伸子は、こっくりとした。
「どうしたのさ――動機ってやつは――」
 灰色表紙の一冊の厚い本は、伸子がこれまで知らずにいたどっさりのことを教えた。自分の様々の疑問がこの日本の社会の中にもっている環境と関係したものであるという性質が、おぼろげに輪郭づけられた。けれども、それはどこまでもおぼろげにわかっただけだった。たとえば、自分が階級的に成長するということについて、具体的に何がどうなればよいのか、伸子にわからなかった。本には明瞭に示されている。小市民やインテリゲンツィアはプロレタリアの革命的陣営に参加して、はじめて自身を歴史の上に発展させることが出来るのだ、と。
 ロシアの歴史のなかでのこととしてみれば伸子にもそれはよくわかった。すでに沢山の人々がそういう風に生きた。けれども、日本で、自分のこととすると、伸子には見当がつかなかった。誰でもが革命家にならなければならないとしたら、そしてそれしか自分の生きる道がないとしたら……。伸子はこわかった。アナーキストだった大杉栄と伊藤野枝が甘粕という憲兵に、どんなにして虐殺されたかを思いおこして、こわかった。伸子は生きたいのだった。篠原蔵人が、リアリズムにある階級の区別についていっていることも、その本をよんで伸子にいくらかわかった。プロレタリアとしての立場で、その感情で現実をみるのだということはうなずけたが、でも、それは、伸子の毎日の暮しや書くものに、どうかかわって来るのだろう。無産派といわれる人々の間では、その理論を語っている篠原蔵人のような人々は特別で、大体労働者出身の作家か、貧乏の生活をしている作家でなければ、発言権をみとめられていないように、伸子の目にうつった。そして実際、伸子のかくものなどは、それらの人々から全く無視されていた。
 それらの人々に認められようと認められまいと、伸子は人間として、女としての自分がこの人生に発言したいものをもっているのを感じた。自分の生きかたを帳消しにする気がなかった。どっかで、何かの理窟にひっかかって止ってしまうつもりなら――それならどうしてあんな思いをして、追いすがる佃の顔をこの手でつきのけるようにして、あぶら汗でつめたくぬるついた佃の顔の感覚が、それをつきのけた自分の手のひらから今だに消えきっていないほどの思いをして、佃との生活をふりもぎって来たろう。
「わたしね、だからソヴェトへも行ってみようと思うの。そこで生きてみたいの。いいことも、わるいことも、みんなこの目でみて、このからだであじわいたいの」
 一方からは楽土のように語られ、一方からは悪魔の巣のように語られているソヴェト同盟のほんとの生活の日々のなかへ、自分の眼と心とで入って暮してみれば、そこの生活の実際がわかるだろうし、それにつれて自分というものやその生きかたもわかって来るだろうと期待するのであった。
「うまく説明出来ないけれど……わかる? 自分を砥石《といし》にかけてみたいの。だから、わたしロシア語なんか知らなくたっていいわ。そこで生きてみるんだもの……」
「それゃ、ぶこちゃんらしい」
 素子は、しばらく黙って考えていたが、
「どだい、君とわたしとは同じ行くにしろ目標はちがうんだからね」
 その点を、改めて自分たちにも明瞭にするというように素子はゆっくり云った。
「しかし、そうきまったらきまったで、早速動き出さなくちゃ」
「そうだわ、旅費もないんだもの……」
 実際的なテムポで云い出す素子にそう答えながら、伸子は、
「ああ、あ」
 長い溜息をついて、卓の上にさしかわした自分の腕へ頬をのせた。
「なんて、ひと仕事だったんでしょう」
「何が?――きまるまで?」
「だって、わたしたち、惰性だけで動くの本当にいやだったんだもの……あなたの方だけ、どんどんはかどって、わたしがそれでもまだわからなかったら、どうしようと思っていたんだもの」
「…………」
 素子は、再びその棗形の小麦色の顔を薄く染めた。そして、黙ったままつやのこもった視線で伸子を見た。そのつややかな眼は、伸子に同じ素子がこのあいだ自分を見た別の目を思いおこさせた。わたしは君にくわれるのはごめんだよ。そう云って伸子を見つめたときの素子の目つきを。それは暗く、一定のところからよせつけまいとするような色であった。伸子は、いま素子の眼をみたしている明るさと、あの暗さとの間にたたみこまれている微妙なこころのひだを感じた。伸子は笑いのかげにある口もとですこし意地わるくきいた。
「あなたは、どうきまりそうだと思っていた? どうきまったら一番いいと思っていた?」
 素子は黙ったまま新しいタバコに火をつけ、それをすった。
「結局、こうなるのが一番自然なきまりかたなんだろう……よかったさ」
「…………」
 伸子は、太平洋航路の大きな客船が、横浜の埠頭から次第次第に沖へむかってはなれて行ったときの光景を思いおこした。銅鑼《どら》が鳴り、渡りはしごがひき上げられ、音楽やテープの色どりのうちに、そろそろと巨大な客船は岸壁をはなれる。最初に、気もつかないほど細い藁や果物の皮などのういたきたない水の幅が岸壁と舷側との
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