者が、皺くちゃになった紙に鉛筆で姓だけを書いたものを示して、あれから三組ほど来た。いつも三四人ずつが一組となって。その人たちは、しかし、必ず玄関から来た。堂々と玄関から来る、というところに、その人々が自身に認めている権威が示されているらしかった。
 白い浴衣の男が、わざとわかろうとしないんだ、とひとくちに云った言葉は、伸子の耳から入って小さいとげ[#「とげ」に傍点]のように心にのこった。その言葉は不愉快な鋭さで伸子の心をつついた。伸子にすれば、わざとわかろうとしないなどという態度は、そこになにか防衛しなければならない特別の利害とか、権威とかを考えずには思えもしなかった。篠原蔵人の階級芸術についてかいた論文は引用ばかりのようでよくわからなかった、と云った伸子に、どんな打算があったというのだろう。わざとわかろうとしない必要がどこにあるのだろう。
 久しぶりで、昔の同窓生であり、小説家である河野ウメ子が遊びに来たとき、伸子は、その奇妙な訪問者のことを話した。
「その人は、そういうのよ。――わざとわかろうとしないんだ、って……そんなことありうる?」
 下町に育って、小柄なからだに、特徴のある美しい上まぶたの表情と長いまつ毛をもったウメ子は、糊のきいた素子の伝法な柄の浴衣の中で、
「どういうんでしょうか」
 ほっそりした首をすくめるようにして、素子の方を見かえした。素子は、黙っている。三人の前に、ウメ子のお土産だったアイスクリームをたべたガラス皿があった。
「河野さん、あなたは、ああいうものおわかりになる?」
 ウメ子は目立たない勉強家で、いつとなく専攻の英文学のほかに、チェホフの作品などを原語でよむようになっていた。小説のことでは伸子も間接に影響をうけている須田猶吉に親炙《しんしゃ》して、婦人の作家に珍しく装ったところのない作風を認められていた。
「わたし、いつもなまけてばかりいてわるいんですけれど、あんまりああいうものは読まないんです」
 ウメ子は、ちらりと奥にある小さい金歯をのぞかせながら笑って、美しい上まぶたをつり上げるようにした。
 伸子には、篠原蔵人の論文にあるように、リアリズムという文学の上の傾向にも階級の区別があって、ブルジョア・リアリズム、プロレタリア・リアリズムとわけられなければならないということが、よくのみこめなかった。「アンナ・カレーニナ」のなかで、アンナがモスクワへ来てはじめて夜会に出かけた晩の美しさ。そしてまた、ウロンスキーと恋愛におちいったのち、良人カレーニンの書斎で、女としての解放を求めて冷血なカレーニンに迫ってゆくあの生命に溢れ、必死な真実に燃えたった情景。ああいう風に、まざまざと人間とその生活とがたぎっている小説がかけたら、と思いこんでいるのぞみのなかで伸子には、ブルジョア・リアリズム、プロレタリア・リアリズムという区分の意味がわからないのであった。
「どっちみち、ほんとにちゃんとした小説がかけるようになりたいわ、ねえ。それは同感でしょう?」
 伸子は、つよい憧れを顔にあらわして云った。
「プロレタリアの生活もブルジョアの生活も、ひっくるめたようなリアルな小説がかきたい。社会はそうして動いているんだもの――リアリズムって云うのも、そういうもんじゃあないのかしら……」
「…………」
 ウメ子はちょっと伏目になったような真面目な表情で、自分の意見は云わず伸子のいうことをきいた。しばらくみんな沈黙していると、素子が、男のように腕をくんでいた片手でパイプを口からとりながら、
「われわれには、階級ってものがよくわかっていないから、どうもすべてはっきりしないのさ」
と云った。
 伸子は、ほんとうに眼を大きく見ひらいてそういうことを突然云い出した素子を見た。素子が、そんなことを云う。――全く思いがけないことだった。
「……あなたはわかっているの?」
「そうはっきりわかろう道理がないじゃないか。けれどさ――どうも、そういうものらしいというのさ」
「…………」
 いつの間に、素子には、そういうことがわかったのだろう。この間京都へかえっていた間も、素子は祗園のおつまはんのところで夜明ししたりした。帰ってからも日常のこまごましたことに関心を示して、すべては相変らずに見えるのに、その素子から自分たちの生活の中では云われたことのなかった階級というような言葉が云われた。これは伸子をおどろかした。軽薄というところがないウメ子が、黙って素子を眺めた目の中にもそのおどろきが映っている。伸子は、からだをよせてゆくような調子で素子にきいた。
「どこで、そんな勉強してきたの?」
 素子は、顔をあかくし、例の、顎を下からなで上げる手つきをした。
「うちじゃあ、いつもぶこちゃんだけが物知りでなくちゃならないってわけもないだろう」
「意地わる云わないで……ね、ほんとに」
「虎の巻があるのさ」
 伸子とウメ子とは、思わず目を見合わせた。
「どこに?」
 素子は、面白そうににやにや笑って返事しなかった。伸子が、瞳のなかに焦立たしさをひらめかせはじめたとき、素子は、
「そこさ!」
 顎で、その座敷の隅にある自分のテーブルの方をしゃくった。
「ほんと?」
「うそをついたって、はじまりゃしない」
 伸子は、すぐ立って机のところへ行ってみた。素子の訳したロシアの作家の書簡集の校正刷りがその机の上にのっていて、わきに赤インクのびんが栓をするのを忘られたままある。見まわしたところ、素子のいう虎の巻らしいものは見当らなかった。
「ないことよ、なんにも――」
「字引の下にあるだろう、カヴァーのかかったの」
 重いロシア語字典の下に、四角っぽい形の厚い本がハトロン紙のカヴァーをかけてあった。
「これ?」
 伸子は、手にとりあげた本を、むこうに坐っている素子の方にさしあげてみせた。
「そうさ」
 立ったまま伸子は、その本をあけて見た。ブハーリン著、史的唯物論と印刷されている。これはしばしば新聞や雑誌の広告でみかけた題であった。同時に、伸子には意味のわからない題でもあった。伸子は、頁のところどころをあけてみながら、のろのろと、二人の坐っているところへ戻った。そして、ウメ子にその本をわたした。ウメ子は、落ちついて順序よく目次をよみ、いくらかの頁をめくった。ウメ子は、だまってそのハトロン紙でカヴァーをつけられた本を畳においた。その本の目次や、書かれている文章のところどころには、伸子がよみなれて来た本にない何か新鮮な、鋭いつっこんだ調子が感じられた。そこにある美しさが感じられた。伸子は手をのばしてウメ子のわきからまたその本をとりあげた。
「面白い?」
「おもしろい」
 素子ははっきりうなずいた。
「ずるいなあ」
 伸子はほんとにそう思って云った。
「いつ買ったのよ」
「二三日前さ」
 二三日前と云えば、白い浴衣の男が不意に柘榴の樹かげから縁先にあらわれた日の、すぐあとのことである。素子は、また顎をなで上げるようにしながら、
「北條一雄の本ていうのも見ましたがね、どうもこっちの方がいいらしいから、こっちにした」
「ずるいなあ」
 伸子はまたそう云った。
「わたしが、とじこもって、あれこれ考えてるまに……」
「いくらわたしだって、まさか、何一つしらないで行くわけにも行かないじゃないか、ぶこちゃんだって買えばいいのさ、どっさり積んであるよ、東京堂に」
 ウメ子が、その言葉に注意をひかれていくらかためらいながら、
「――どっかへいらっしゃるんですか?」
ときいた。素子は、
「ああ、」
と、自分で自分の言葉に不意うちをくったように少しまごついた。
「まだはっきりきまったことじゃないんですがね――わたしもどうせ一生ロシア文学の翻訳で暮すんなら、思いきってひとつソヴェトへ行ってきたいと思って……」
「まあ!」
 ウメ子は、まぶたの上にさっと艶を浮べて、
「いいこと! 是非いっていらっしゃい」
 独特の謙遜な態度で賛成した。
「いらっしゃれたら、本当に結構ですわ、わたしまでなんだかうれしくなっちゃった」
 なっちゃった、というところを、いかにも東京ッ子らしい歯切れのいい調子で早口に云って、ウメ子は、身幅のひろすぎる借着の浴衣の中で首をすくめた。
「――伸子さんもいらっしゃるんでしょう?」
「わたしは、お金がないの」
 すると素子が、幾分からんだ口ぶりで、
「金だけの問題じゃないんですよ」
と云った。
「相かわらず手がこんでるんですよ……動機がまだ熟さないんだそうだ」
「だって――それはウメ子さんは、わかって下さると思うわ。あいまいで、行くようになってしまったりするの、惜しいんですもの。度々行けるところでもないんだもの」
 動機ということを云えば、名も告げない白い浴衣のひとが来て云ったことで、伸子は、自分のわからなさの凝集作用ばかり見つめていたような状態から、つきとばされて、そとへころげ出たようなところがあった。わからなさのそとに、わかるべきことが存在していて、むしろ、そっちに意味がありそうに思えるようになって来ているのであった。
 ウメ子は、その晩伸子たちの住んでいる郊外の家へ泊った。翌日のひる前、帰ろうとするウメ子に、素子が実際家らしい調子で念をおした。
「旅行の話ね、あれはまあいまのところ全く確定していないんですから、そのつもりで、たのみますね。いい恥っかきだからね、じたばたしてあげくの果に行けなかったなんてのは――」
「ええ。大丈夫です。誰にも云いませんから……」
 玄関へ出ながら、ウメ子は濃い長い眉をあげるようにして、
「しかし、本当に実現なさるといいですね」
 伸子をかえりみて、云った。

 うすい灰色のような紙表紙に、赤い字でブハーリン著史的唯物論と書かれた定価一円の厚い本が、伸子の身のまわりにも現れはじめた。この一冊の本によって社会のなり立ちというものが、いくらか客観的に伸子の前に示された。伸子が、久しい間ぼんやり人間性の発展として文学的に感じて来ていた社会の進歩ということが、生産条件の発展とその推移を中軸として実現するという事実は伸子にとって全く新しい真実であった。社会に階級があるということも、いきなり文学とくっつけてはのみこめなかったけれども、この本のように、階級のなかった原始の社会から、どう人間の社会は変化して来て階級が発生したかと説かれてあれば、伸子にもわかった。一つの発展のうちにふくまれている矛盾そのものに、また次の発展の可能が用意され、進展には固定があり得ないということ、絶対がないということ、解決しきるということは現実にあり得ないこと、それらは、伸子を同感させ、そして実感に迫った。これまで伸子は、保がいつもくりかえす「絶対に云々」という観念をどんなに、うさんくさく思って来ただろう。いつもそれに抵抗を感じて来た。その抵抗によりどころがあったし、それが自然だったのだ。
 伸子は毎日どっさりの時間をその本のためにさいた。部分部分ばかりにふれ、そこからだけ覗いて来たこの人間の社会というものを、その千変万化の複雑さのなかに、矛盾の根柢から解明して、歴史の発展してゆく必然の方向を導き出してゆく社会科学というものの方法は、全く新しい力で伸子の知識慾をみたした。
 伸子は時々その感動を抑えきれなくなった。そして素子に、
「わたし、ほんとにうれしい」
と云った。
「まるで霧がはれてゆくみたい。一つ一つ山や森や河の景色が霧の中から見えて来るみたい。そうじゃない?」
「――」
「ねえ。あなたはそう感じない?」
「うるさいじゃないか、いまこれをしてるのに……」
 素子は、おこったようにはねつけた。
「きのうも、同じこと言ったじゃないか」
「そうだったかしら――ごめんなさい」
 そして、伸子はまたその本に戻ってゆくのであった。
 階級というものの存在は客観的であって、自分自分の主観に立ったこころもちにかかわりない社会的事実である。このことは、伸子を深く考えこませた。人はそれぞれ一定の階級に属し、階級はそのものとしての歴史的な利害をもっている。この客観の事実は、その人が階級とい
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