話題をうつし、
「あなたの方、どうだった?」
ときいた。
「工合よく行って?」
「――ひとり角力とって来たみたいなところがあってね」
 予定していたほど、素子が分配される財産がなかったらしかった。
「まるで駄目?」
「そんなことはないさ!――それゃ、わたし一人ぐらいはなんとかなりますがね」
 わたし一人ぐらい、という言葉に伸子はおどろいた。
「一人ぐらいって……」
 では、素子は、伸子の外国旅行の費用も、自分の分から賄おうと思っていたのだろうか。
 伸子はあわてて、
「そんなこと出来ないことだわ」
といった。
「とても、わたし、出来ないわ。わるいわ。それに――」
 よしんば素子に十分の金があろうとも、伸子はその金で自分が外国を旅行するということは考えられないのであった。
「ぶこちゃんは、そう思うような人さ。だけれどね、金は、金さ! そうだろう? 使える金を一番よく使うのが功徳というものさ。――うちの親父も、どうせろくな金をためちゃいないにきまっているが、まさか、さわって穢れるほどの悪銭でもないだろう」
「そういう意味じゃなくさ」
 伸子は、すこし顔をあからめ、素子の心くばりをうれしく思いながら、ゆずらない小声で、
「そのお金、出来ないでよかった」
といった。
「もし出来たら、わたし困るわ。やっぱり、そんなこと出来ないし……」
 赤いパイプを口の中でころがしながら、素子はまぶしい庭から移した視線を伸子の上においた。
「――ぶこちゃんの気持は、じゃあ、どうなのさ」
 外国旅行の話が出て初めて、素子がそうきいた。
「行く気がないのか?」
 まるで行く気がないといえば、それは一面に傾きすぎた答えだった。
 それかといって、伸子のいまの心は、どうしても行きたい、というところまで歩み出していなかった。
「もちろん、行ってもいいと思うわ。でもわたしロシア語専門というのじゃないから、行くならフランスなんかもみたいし……」
 だが、それも伸子の心もち全部をいいあらわしている返答でなかった。伸子は、もしこんど外国にゆくのなら、本当に自分ではっきりした動機をもって、はっきりした心持で行きたいと思った。二十のとき、父につれられてニューヨークへ行った。それは伸子とすれば全くうけみな偶然であった。その偶然をそのときの伸子として一番痛切だった方向に活かそうとしたのが精いっぱいであった。外国へゆくということは、その経験があるだけに、かえって伸子を考えぶかくするのであった。
「あなたは、自分の専門だから、行く理由も目的もはっきりしているわ。でも、わたしの方は……ねえ、わかるでしょう?……それにね、いま、わたしの心に、こうなっているものがあるの」
 伸子は、両手の指を胸のところで、もしゃくしゃと動かしてみせた。
「それがまとまると、きっとはっきりすると思うの、だから、もうすこし待って……」
「それゃ、待つも待たないもないけれど……」
 相川良之介の死は、それを知った当座のおどろきや疑い、悲しさの激発が一応はしずまったあと、伸子のなかに深い余韻をのこした。その余韻は、細々としながらしかも消しがたく、丁度相川良之介が「蜘蛛の糸」という小説でかいた一本の細く光る蜘蛛の糸のように、伸子の日々を縫い貫いて、その日々に何かの作用を与えはじめていた。その蜘蛛の糸は、いまにも絶えそうに細いのに決して切れない強靱さをもっていて、南京玉を一粒一粒ととおしてゆく絹の糸のように、いつの間にか、伸子の心の中で、一つ一つばらばらにおこって伸子をつき動かした出来ごとと出来ごととの間をとおして、それはなんだか、そしてどうなるのだかは分らないながら、一つの輪になりかかっている気持であった。
 この二三ヵ月のうちにおこったいろいろのこと、越智と母とのいきさつ、保の生活ぶりとそれにたいする自分のいつも心配な心持、どれも切実なようでいてそのはしばしは、みんな本質的には未解決のまま、伸子にとって手に負えない、現実のくらがりのうちに消えこんでいる。そのわからなさの上に大島のり子の優美に泣きくずれた姿があり、またあのよごれで光った三人の若い青年たちの顔々もある。
 いつか動坂の客間の夕やみの中で保の心もちを飛躍させる力のない自分を不本意に苦しく発見したとおり、これまでの伸子の心ひとつでは、自分のわからなさとこんぐらかってしまうだけだったものを、一条の蜘蛛の糸が、細く、しかし決して切れないその光る粘りで、貫きまとめかけているように思えた。それはいろいろが、もっとわかって来た、というのではなかった。反対にいくつも、いくつものわからなさの間を、相川良之介がその時代に向って正直に示した、ボンヤリした不安という蜘蛛の糸が絡みまとめて、そろそろ、そろそろそのしぼりを締めつつあるような心持だった。わかったという方向から湧く力ではなく、ほんとにわからない! としぼりがちぢまり凝集することで、そこからなにかひとつふみ出す力が湧きそうな、痛みと歓喜との入り交った予感が伸子の心をうずかせているのであった。
 伸子は、わかりにくいことをわかって貰おうとして、困り困り素子に自分のその心持を説明した。
「だからね、わたしは、これをすっかりみのらしてみたいの。わかる? 中絶したくないの。音楽のように、しまいまできいてみたいの」
「――まあ、それもいいだろうさ、わたしの方だって、なにもきょうあすにきまるわけじゃなし……」
 素子は、そういう伸子の心にはあまりさわらないようにし、さわらないことではやく、伸子がいわゆるみのった状態におかれることを期待している風で、自分の旅行のための用事で外出しつづけた。巣についた牝鶏のように、伸子は家にこもりつづけた。
 そういうある日の午後、縁側で竹の葉の色が青く映っている金魚の鉢を眺めていた伸子は、うしろで、
「こんにちは」
と、よびかけた男の声におどろいた。ふりかえるなり、伸子は、愛嬌のない眼をそちらにむけた。少女むきの文芸雑誌の記者で沼辺耕三という記者が、原稿をたのみに、といって先頃ちょいちょい訪ねて来た。沼辺耕三は、玄関をあけて入らず、柘榴の下枝をくぐって、いつもいきなり座敷の縁側のところへ姿をあらわした。はじめて来たときから、彼はそうした。
 伸子は、そのとき座敷にいたこともあり、いなかったこともある。不機嫌になって座敷の真中の卓の、床の間よりの側に坐る伸子に、白服をきた沼辺耕三ははなれた縁側から、話しかけた。
「きょうは吉見さんは――お留守ですか?」
 そして、奥をのぞくようにした。伸子のこころに、留守ならばどうだというのだろう、と思わせるいいかたできいた。いくら伸子がことわっても、何か書けと求めた。そのおしのつよさは、伸子に自然なものとしてうけとれず、俗に男はおし、という、そういう意味でのおしの感じに通じていて、沼辺耕三を嫌悪した。
 その男が、きょうは浴衣がけで来た、と思って、伸子はいそいで縁側から立って奥へ入ろうとした。すると、庭へ入りかけていた白い浴衣の人は、伸子のおどろいたのがわかったと見え、
「や、失敬しました」
といった。
「――玄関へまわった方がいいですか」
 眼を定めてみれば、それは、沼辺耕三とはまるで別の人であった。ただ、三十をすこし出た年恰好が似ているのと、背だけが似ていたのだった。眼鏡をかけた顔は、すこし蒼く、静かに見えた。伸子は、あわてた自分に苦笑した。
「失礼いたしました……ちょっと人ちがいして」
 縁側へ出て行った。
「どなたかしら……」
「いや、別に名前をいうほどの用で上ったもんでもないんですがね」
 白い浴衣の人は、高くしげった夏草の穂を野原にでも立っているようにぬいて、それを指の先でまわしながら、
「あなたの書かれるものを読んでいるもんだから……」
といった。
「…………」
 伸子はきくような眼でそのひとを眺めた。
「偶然通りがかって、表札を見たもんだから――」
 浴衣のひとの言葉づかいやものごしが、伸子に珍しい印象を与えた。伸子の書くものを読んで、と訪ねて来た人にしては、そのひとは大人すぎて見えた。さっぱりした感じとまじってほんのすこし横柄のようでもあった。年の多さという以上に、そのひとは伸子にたいして、出来上っている自分の世界の感じを示した。伸子は静かで、おとなしく、だが、どこかふみこんだところのある人物を、警戒よりもつよい好奇心で見まもった。
 庭へ立ったまま、そのひとは、縁側にいる伸子にきいた。
「あなたは、北條一雄というひとの書いた本をよんだことがありますか」
「それは――文学の本じゃないでしょう?」
 伸子は、どこかの広告でその名を見た記憶があった。
「文学じゃない」
 浴衣のひとは、苦笑のような笑い顔をした。
「経済と政治ですがね」
「よんだことはありません」
 あるとおりに伸子は答えた。
「――そんな本の話きいたことはないですか」
 伸子たちの生活の輪には、政治や経済の話をする人はなかった。
「一つよんでみる気はありませんか」
「さあ……」
 自分の名もいわずに、いきなりそんな話をしはじめた人を、伸子はまた不思議に感じた。その心持を顔にあらわして立っている伸子に、その浴衣のひとは、また苦笑に似た笑顔を見せた。
「マルクス主義なんていう雑誌は、よまないんですか」
「よんだことないわ」
「文芸理論も出ますよ、篠原蔵人の立派な論文もありますよ」
「そうお」
 篠原蔵人という名前で書かれた文学についての論文を、伸子はいつか雑誌でみたことがあった。読んだがわからなかった。引用から引用に続いた文章の組みたてで、伸子にはどこに、そのひとの文章があるのかよくわからなかった。そういう面ばかりつよく感じられて一層伸子の理解が戸惑わされた。
 伸子は、そのとおりを浴衣のひとに話した。
「なるほどねえ――そういう風なものかな――しかしわかりますよ」
 力を入れて、くりかえした。
「あれが、わからないなんてことはないはずだ」
 そして、いくらかむっとしたように、
「それは君がわざとわかろうとしないんだ」
といった。
「どうして?」
 伸子は縁側にしゃがんでいて、思いもかけない表情になった。
「どうして、わたしがわざとわかろうとしないなんて、あなたに、わかっていらっしゃるの?」
「…………」
「いま、はじめてお会いしたばかりだのに――」
「いや、いや、そういう意味でいったわけじゃない」
 伸子は、本当にそれがどういう人なのか知りたそうにまた、
「――あなたは、どなたなんでしょう」
とつぶやいた。しかし浴衣のひとは黙ったまま、手にもっている雑草の穂を指の間でクルリ、クルリとまわしていたが、やがて、吸いきったタバコでもすてるようにそれを足下にすてて、
「――どうも突然、失敬しました。いつか北條一雄の本はよんで見られるといいと思うな」
 そういって、伸子があいさつをする間もなく、柘榴の枝かげに身をかわして、門の外へ出て行ってしまった。その白い浴衣の後姿に黒い兵児帯が伸子の目にのこった。

        二十三

 不意に柘榴の樹かげからあらわれて、伸子が一人で金魚鉢を見ていた縁側によって来た男は、何者だったのだろう。どういう意味で、北條一雄の本のことや篠原蔵人の書いたものについてばかり話して行ったのだろう。それらの本や論文について、伸子が、わざとわかろうとしないんだ、というようなことを、どうしてその白い浴衣のひとは云うことができたのだろう。
 素子が夕方帰って来たとき、伸子は、その不意な来客について話した。
「まるで知らない男かい?」
「知らないわ……」
「近所に住んでいるらしかった?」
「そうとも思えなかったけれど」
 素子は、煙草の煙が夕風に流れる方角を追うように庭に目をやっていたが、
「ここが流通なのも考えもんだな?」
と云った。門から玄関までの通路と庭との境に、垣根のないことをいうのであった。
「どうもこの節は、えたいのしれないものが頻々《ひんぴん》とやって来るね」
 きょうの不思議な客ばかりでなく、いつか来た三人の、よごれで光った青年たちのような若
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