す」
と答えた。昔亡夫は大学教授であったというのり子の家庭のあらましが、そのピアノのことからだけでもおしはかられた。
「――母もすきで、下手でございますけれど弾きますの、若いころには音楽学校に入りたかったんですって」
のり子は、来年の春、その大学を卒業しようとしているのであった。大島のり子というひとは、いい紙に大きい仮名でかかれた手紙のような感じだった。ペンでつめた字ばかり書いている伸子にとっては、のり子と向い合って話している気分の行間が、いかにもゆっくりのびていた。そして、そのゆったりとられた行間はただの余白というのではなくて、かかれた文字の余韻の響いているところという風だった。伸子に、こういう若い友達は珍しかった。のり子としては、哲学も、つまりは人間の趣味の一つと考えているというのが、そのままうなずけた。
のびやかに話している大島のり子の、どこやら漱石の女性が進化したような雰囲気を感じながら、伸子は、このひとがもっている話したいことというのは、どういう事なのだろうと思った。もしかしたら、肝腎のそのことには結局ふれずに帰るひとなのかもしれない。
大島のり子は、テーブルの上に出ていた白い団扇をなんということなくうちかえして眺めていたが、ふとその手をとめて、ふっさりした前髪を傾けるようにしながら、
「佐々さん、豊田淳さんのおかきになるものなんか、お読みになることがございますか?」
ときいた。漱石門下の先輩で有名な一人であることを知っているだけで、伸子はその人のように日本の古典芸術に深い興味をもっていなかったし、演劇に通じているわけでもなかった。
「あのかたのものは、楢崎さんなんかの方がよくよんでいらっしゃるのじゃないかしら……わたしは、多趣味というんじゃないんですもの」
のり子は、しずかに笑った。
「それはそうね」
また団扇をいじっていたが、そのまま、
「あの方、あっちにいらっしゃいますのよ」
と、大学のある地名をいった。
「――講座をもっていらっしゃいますの」
「――あなた、おききになるの?」
「ええ、昨年一年うかがいました」
葉から葉へつたわるしずくのように、少しずつしたたって来るこれらの話、というより、むしろそれを話すのり子の話しぶりから、伸子はぼんやりなにかを感じはじめた。
「豊田さんの話は、豊富でしょう?」
「豊富ですわ――。それに、いい感覚があって、……」
一音ずつ鳴らすピアノのようにのり子は話す。その一つ一つは、一つ一つとしての音色をもって鳴っている。そこから伸子にはっきりわかって来た、のり子の豊田淳への傾倒は、どういう内容で展開しているのだろう。
「わたくし……どうしようと思っていますの、もう、あっちからは引き上げて来てしまおうかとも思って――」
のり子の調子は、住居をうつすばかりでなく自分の感情も、あっちから引上げて来た方がよかろうかと意味しているようにきこえた。
「わたしにはわからないわ……勉強の方はどうなの? もう論文だけでいいの?」
「ええ、そちらは、まあどうにでもなるようなものですけれど――」
夏の若い女のほんのり美しい顔色に、重いかげがさしよって来た。のり子のふっくりしたまぶたや顎のところが、上簇《じょうぞく》まえの蚕の肌のような鈍い透明な色になった。伸子にのり子のせつなさが感染した。伸子は、力を入れて棹をつっぱって、二人がのっている話しにくさの小舟を、流れのなかへつき出した。
「ほんとに――論文なんかどうにだってなるもんでしょう……」
いきなり問題の中心に飛躍して、伸子は、
「具体的に複雑なことになっているの?」
ときいた。そして、すぐつづけて念をおした。
「わたし、自分が伺いたいのじゃないのよ、だから……返事なさらないだっていいのよ――ただわたしが無作法な方が、あなたにいくらか便利かと思って……」
「ええ、ありがとう。わかりますわ」
のり子は、膝においた両手の指で小さいハンカチーフを、かたくかたく細い棒に巻きしめた。
「――具体的ですし――この頃ではもうすっかり発展の見とおしもなくなってしまって……だもんだから」
苦しくて、というところをのり子は黙って椅子の上で身をよじった。伸子は、豊田淳の書くものを思い出した。そのこった、ふくみの多い主観的な表現と、のり子の言葉のすくない風情との間には近似性がある。その趣が趣をひきつけたところから、のり子として真剣な問題がおこって、初対面の伸子にもむき合わせることになった。のり子の、ひとり苦しんでいる、という様子が伸子に、さまざまの現実を推察させた。伸子は歎息するように、
「いつも女の負担が多いのねえ」
といった。
「なんて、そうなんでしょう!」
水の中でこらえていた顔をもちあげて、一気に苦しい息をはき出すようにのり子が応じた。
「愛することは、まるで苦しさに耐える、というみたい……」
「だって、それは変えなけれゃうそよ」
伸子らしい一途さでいった。
「そういうのは決して、正常じゃないわ。決して正常であり得ないわ」
佃と暮して、もがき苦しんでいた間、伸子はどんなにしばしば、いまのり子が歎いたような歎きに呻いただろう。歎いても歎いても、そのことで歎きの原因はとりのぞかれなかった。
「佐々さんの場合はわかりますわ。――ですけれど、もし、正常にする可能性がどこにもなかったとしたら? どうすればいいのかしら……」
「…………」
「正常にするためには、もとからある生活を根柢《こんてい》からこわさなければならないとしたら――」
「だって――それは、はじめっからわかっていることじゃないの?」
「……実際にそれが不可能だとしたら? 男のひとに、その意志がないとしたら?」
そういうのり子のまぶたの色は鉛のように沈んだ。その名をきけば一部の人々には教養の守護者のように思われている人の生活の現実も、こういういきさつとなると、凡庸さも、不決断を理由づける卑屈さも、世間の多くの男の場合とその本質では大差ないように見える。伸子は自分もその気分に染んでいないこともない教養ごのみそのものに、なまなましい嫌悪を感じた。教養の選良のように見られている人に、こんなありふれた男女関係の混乱がある。しかも、これらの人々にはありふれた事件をありふれた事件として判断するものを、かえって嘲笑する傲慢さがある。情景のひとこまひとこまが、よしんば教養のニュアンスで複雑にされ、情趣で色どられているにしろ、社会で生きる男と女としてはこれまでの男くさい勝手をつらぬいて、むしろその弁護にだけ役立てられる教養というものに、伸子は唾棄を感じた。
とり乱すことが出来ないだけになお苦しそうなのり子は、そこに出ていたコップをとり上げて、氷のかけらの浮いた水をひとくちのんだ。そして、しばらくいいようを考えている風だったが、いきなり、
「父親をもたない子供が生れるということは罪悪でしょうか」
といった。いい終ったのり子の鉛色のまぶたがだんだんにあからんだ。その変化は、のり子の若い肉体と精神の全血行の逆流を語った。のり子のその顔つきは、こうしてそれをみているより自分の胸の上に抱き伏せてしまった方が、まだ楽だと伸子に思わせた。伸子は、自分を凝視しているのり子の眼に、ひとこと、ひとことをうちこめるようにいった。
「世間の習慣では、そういう子供はかわいそうね。でも、罪悪かしら――一人の女のひとがその子の母親となるようになった動機が罪悪といえるかしら――」
伸子にそうは思われなかった。
「でもね、当然母親になるはずの女の人と子供とを、そういう条件においておく男があれば、それは罪悪的だわ。子供が生れる生れないにかかわらず、よ。世間が、どうみる、みないに、かかわらず――そうでしょう?」
よくいいあらわせなくて、伸子はもどかしげに目ばたきした。
「そういう条件だのに、それなりずるずるに進行した全体の関係そのものが変よ――まして一方に、もうちゃんと出来上った家庭生活があったりすれば……」
いっているうちに自分にも少しずつ細部が明瞭になって来て、伸子は、
「その意味では女のひとにだって、同じだけ責任があるわけだわ、知らなかったのではないんだもの」
といった。
「愛なんて、ほんとに愛なはずだのに――紛糾や怨ではないはずなのに――妙ねえ。なぜ、こんなに、どこでもかしこでも愛はごたごただの苦しみだのなの? ほんとに、なぜ? 愛が苦しみだなんて――」
ほんとうに、伸子のまわりのどこに、愛の発露とはこうもあろうか、と、目を奪われる眺めがあるだろう。佃と自分とがからみあいもつれあって生きたあの姿。母と越智との空虚な、しかも力いっぱいの葛藤。そして、母と娘との感情においてさえも――。伸子はその中から自分をもぎはなすように、頭をふっていった。
「ね、勇気をふるってね。いやな苦しいいきさつの中から、一番ましな部分をつかまえるのよ。生れるものを堂々と生れさせるのよ。生むことを堂々と認めるのよ。父親は逃げた。それだって、その女のひとは子供を愛しているのだわ、そうでしょう? 愛はそのひとのものだわ、そうして、子供も……。子供には子供の人生を生かしてやるのよ」
のり子の、また鉛色にかえったまぶたの下から、とめどなく涙が溢れた。のり子は、涙を抑えていたハンカチーフを口にあてて、声を忍んで嗚咽しはじめた。伸子は座をはずした。
ほどたってから、伸子が新しくこしらえた飲みものをもって座敷へ戻って行こうとすると、のり子が、どうしたのか隣室の襖ぎわへ来て立っていた。
「――気もちがわるくなったの?」
おどろいて、伸子がたずねた。
「いいえ」
のり子は半分ぼうっとなったように、涙で濡れたハンカチーフを握ったまま、なおそこにたたずんでいる。じっとしていられなくなって、我知らずそこまで動いて来たという風だった。
「あっちへ行きましょうか。立っているとくたびれることよ」
「ええ」
のり子は、ななめ下の畳を見つめながら機械的に返事したが、動こうとしなかった。伸子がひとあし進もうとしたとき、その胸にのり子がぶつかるように身を投げかけてきた。
「ねえ、あのかたのことをわるくお思いにならないで!」
低いけれども、絶叫のようにのり子はそういった。
「どうか、あのかたのことをわるくお思いにならないで頂戴!」
そして、伸子の胸から、伸子よりもすらりと高い自分の上半身をすべらせて、傍らのベッドの上へ泣き伏した。
夏の夜なかの豪雨を蚊帳のなかで聴きながら、伸子は昼間のその情景をこまごまと思いかえした。女ひとりの寝ている家の屋根瓦をうち、その庭に生い茂った夏草の根を洗って流れる雨の音と稲妻の間を縫って、あのかたをわるくお思いにならないで! といったのり子の、訴えにみちた叫びが、またきこえるようだった。あのかたをわるく思わないで。――しかし、ベッドの上に泣き伏したのり子の綺麗な友禅の絽のおたいこは、なんとせつなく波うちもだえていただろう。
伸子の心は、いうにいえない哀憐と、人間生活へのわけのわからなさで、しめあげられた。瘠せた顎に汗とともにかわいたほこりのしみをつけたきたない遠藤絢子は、ギラギラした眼でもって、幽鬼じみた接吻のことを告げた。相川良之介さんは私に接吻したんです、と。そこにも人間性のぴくぴくする断片とその痙攣とがある。けれども、なんとあれこれは互に齟齬しており、くだらなさと痛切さとがまじりあっていて、窮極の意味はわからないのだろう。豪雨の夜の天地の暗さと、人間の生きかたの奇妙なくらさとは、ひろい座敷に虫籠のようにつられている白い蚊帳を、パッと瞬間ひらめき照らす稲妻が消えるごとに、いよいよ濃くなりまさって、伸子の心とからだとをおしくるむようだった。
二十二
素子が京都から帰って来た。
東京をはなれたのは僅かの十日たらずであるけれども、その間ひどくちがった生活の中にいてきた人の眼つきで、素子はうちのなかを見まわした。
「――どうした? 相川良之介の葬式には出かけた?」
「ええ。行った」
伸子は、不自然でないように
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