と判るかどうかも疑わないわけにはゆかないだろう。」こういうところは、伸子に字づらでしかわからなかった。伸子は、封建時代という意味をぼんやり「昔」としか理解していなかった。従って、相川良之介のいっている意味はよくのみこめず、その十分のみこめない文章の中で伸子によくわかるひとつのことは、自分によくわからないことについては書かないものだ、と語っている相川良之介の態度であった。この暗示に従えば、伸子として相川良之介についての感想などを書くのは礼儀でもないし、自分に忠実でもない、ということになった。しかし、伸子とすれば、自分にまでそういう暗示をなげる相川良之介の聰明そのものに非肯定を感じるのであった。
伸子が机の前で考えにしずんでいるところへ、とよが、
「お客さまですが……」
と来て立った。
「どなた?」
「遠藤絢子さんという方です……老松町のころにもよく上ったとおっしゃっていますけれど……」
遠藤さん――伸子は思い出した。老松町の家に住んでいた頃、近所の筑前琵琶師の二階がりをして、賃仕事などをしながら、文学をやりたいといっていた絢子という二十四五のひとがあった。
「ぜひお話ししたいことがあるっておっしゃいます」
伸子は、玄関へ出てみた。二三年会わなかったうちに、生活のやつれが濃くなり肩も骨だって見えはしているが、やはりそのひとであった。
「ああよかった、わたし、きょうはどうしてもきいて頂かなくちゃならないことがあるんですのよ」
犬歯の目だつ口もとで、伸子の上に目をすえていった。
「ともかくお上りなさいな」
玄関に立っている様子も、そこから座敷に入って来る絢子のものごしも、どことなく伸子を警戒させた。伸子は、客を北側の落ちつく小部屋の籐椅子へ案内した。遠藤絢子は、暑いさなかを歩いて来たのに、汗をふくよりのどの乾きの方がきついという様子に見えた。冷たい水をたてつづけにのんだ。そこに出ている団扇をとりあげようともしないでコップで二杯の水をのみ終ると、
「ああ、お会い出来てよかった!」
思いつめて遠方から来た気がゆるんだというように、椅子の背へもたれこんだ。酷暑だのに、白地銘仙の着物に友禅の昼夜帯をしめ、そのどっちにもたたみめがなかった。伸子は、
「なにか急に用があったの?」
ときいた。
「ええ是非きいて頂きたいと思う重大な問題があるもんですから……」
絢子は、伸子が老松町を引こしてからの自分の生活を話した。久地浩のところへ出入りし、書いたものを見て貰い、大変嘱望された。またこの一年ばかりは相川良之介のところへしげしげ訪ねていた。そういう話だった。絢子は、
「あのかたは、家庭でも、ほんとに孤独でいらしたわ、わたしにはよくわかっていましたの」
そういって、わかる訳があったのだ、という眼つきで伸子を見た。伸子は、ばつのわるい表情をした。黙っていると、
「あの新聞に出ました『ある旧友への手紙』もちろんおよみになりましたわねえ」
といった。
「ええ」
絢子は、犬歯のめにたつ口もとを引しめてうつむいていたが、その頭をもたげるなり、
「あすこに、女人とありましたでしょう。あれは、実は、私のことなんですの」
「…………」
おこった視線で、絢子はその言葉を信じかねて黙っている伸子を見つめた。
「あなたも、私のいうことをお疑いになるんですのね」
伸子は、
「ごめんなさい」
といった。
「でも――わたしは、あなたに二年も三年も会わなかったでしょう。そして、相川さんという人だってなにも直接の交友はなかったんですもの――信じる根拠も、信じない根拠も、わたしとしてはないのよ」
やせて、皮膚のあれている顎をすくうようにして、絢子はうなずいた。
「それはそうですわね」
絢子はなおひとりうなずいた。
「佐々さんは、やっぱり佐々さんらしくていらっしゃるわ……あがってよかった!」
すぐつづけて、
「でも、それは事実なんです」
と、もとの主題に戻った。伸子は困惑し、同時にいとわしかった。
「事実だとして、わたしが伺って、どうかなることなの?」
「ええ、なりますとも。あなたが私のいうことは事実だって証明して下されば、それで私は満足なんです」
相川良之介というひとは、何といろいろの角度から、いろいろの女に興味をもたれていたのだろう。多計代が示した好奇心も思いあわされた。伸子は、相川良之介が絢子にたいしていまいうような関心をもったということは、普通では信じられなかった。すべての点から。――たとえば、相川良之介がもっている清潔さへの好みにたいして、絢子の皮膚には汗のよごれが見えているというような点からだけでさえも。――
伸子は、本気になって、
「ね、絢子さん」
とよびかけた。
「ああいう有名な、ある魅力をもつ人が、内容のわからないああいうことをかくと、大変誤解がおこるのよ。外国の文学史をみたって、そうだわ。愛人の詮議がよくおこるでしょう。――失礼だけれど、第三者からいえば、あなたのように、自分をその立場に当てはめて考えている女のひとが、ほかに幾人もあるかもしれないのよ」
「それゃ、事情を知らない方は、そうもお思いになりますでしょう、でも――私の場合はちがうんです」
「日本の女のひとは、外国の男が何でもない習慣ですることを、特別の関心と思いちがいして、かわいそうなことになるでしょう。――相川良之介というひとは、最も辛辣なことをいっても女のひとは愛の告白かと思いちがえるかもしれないぐらいのところがあったのよ」
「ええ、それもわかっています。でも私の場合はちがいます」
そして絢子は、その言葉で伸子の顔をぶちでもするように、
「相川良之介さんは、私に接吻したんです」
といった。
「あのおうちの二階からおりようとしていたとき、階子段のところで……」
伸子は、ぞっとした。そして、黙った。ペンをもつ手がふるえ、涎がたれるようになったと自分について書いている相川良之介を思った。二階へ急にかけ上って来た夫人が、となりの部屋の畳につっぷして、お父さんが死んでおしまいになったのじゃないかと思って、と弾む息をころしていた情景を思いおこした。その家の二階を下りるとき――……
「そういうことがあっても、あの女人というのは、私でないとおっしゃいますの?」
二人が腰かけている小部屋の出窓の前の樫の梢でミーンミンミン、ミーンミンミンと単調にやかましく蝉が鳴きたて、生垣ごしの隣家の草むらに大輪の向日葵《ひまわり》が黄色く咲いている。草木の上には夏の日光が燃えきらめいている。そのやきつく風景を目に見ながら伸子は、寒いような心持だった。もし万一、絢子のいうようなことがあったとすれば、それは、酸鼻だと思った。相川良之介は、刃のこぼれた細身の劒を杖にして、その日その日をよろばい生きている自分の哀れさを、恋愛に飢え、金銭にかつえ、名声にかわいて汗くさくなっている絢子の上にも感じたのかもしれなかった。人生を彷徨《ほうこう》する餓鬼が、また一人そこに女の姿をしていることを病的な神経に感じとったのかもしれなかった。鼻の頭にされようと、唇の上にされようと、そのこころに立ってされた接吻でなくてほかのなんであったろう。それは幽鬼の接吻でなくてなんであろう。ともに頽《くず》れゆくものとしての挨拶でなくてなんであろう。
しかし、それは、絢子のいう意味の接吻とは全くちがう。本質がちがう。絢子にそれは理解されないだろう。
沈痛に沈黙している伸子を、じりじりした眼で見まもっていた絢子は、どうしても信じるらしくない伸子を屈伏させようとするように、そのことで、自分が男心を惹きつける女性であることを力説するようにいった。
「佐々さん、まだ信じて下さらないんですのね。でも、男のかたのこころというものは、微妙なものですわ」
そういう事情に通じない伸子を憫笑するようなほほえみを浮べた。
「久地浩さんも、私に接吻なさいました。でも、あのかたなんかはね……」
世評にもいわれているとおりなのだから、という声の表情だった。
絢子のいうことが事実であるにしろ、ないにしろ、そういう話しぶりをする絢子のこころは普通でなくなっている。
伸子は、
「ひととひととのいきさつには、きっと、はたではわからないようなこともあるものなんでしょう」
自制して、おだやかにいった。
「私にはわからない事実というものもあるんだろうと思います。でもね、遠藤さん、あなたは相川良之介という人を愛していたの?」
「それは愛していましたわ。家庭で、どんなにあの方が孤独だったか知っていたのは、私一人ですもの」
「それなら、そういう話を、あっちこっちもって歩いて、わけもわからないひとに、それを信じろなんていう必要はないと思うわ」
こんどは、絢子がだまった。
「わたし、あなたが、そういうことをいって歩くのを考えると苦しいわ」
伸子は、しばらくだまっていて、やがて、
「やめた方がいいわ、おやめなさいよ、ね」
といった。
「少くともわたしは、もうききたくないわ。いい?」
また、間をおいて、
「世間は冷酷ですからね、あなたの気がどうかしている、というのがおちよ」
遂に伸子は、とことんのことをいった。絢子は、じっと伸子のいうことをきいていた。そしてそろそろとかえり仕度をはじめた。
「ほんとに、そうですわ」
顎を掬い出すようにしてまたうなずいた。
「あなたのおっしゃるとおりですわ。いくら記者のひとに話したって、気違い扱いなんですもの」
「そんな人にまでも話したの?」
「ええ」
どうしてそれがまちがっているのか、という風に平静に、伸子の世間のせまさをあわれむように、絢子は答えた。
あらゆる草木や地面からしめりけというしめりけを蒸発させて暑くかわき上っていた空の模様が変って、八月に入ったある夜、雷鳴につれて豪雨があった。
素子は、まだ京都から帰っていなかった。奥の座敷に広々とつった白い蚊帳のなかで、ひとり床に入っている伸子は、じっと目をあいて凄じいその雨の音をきいていた。茂った竹藪の竹の葉や手入れのされていない松の枝、自然な萩のしげみなどをうっておちる雨の音は柔かく幅ひろくとどろいて、そのとどろきは、しずかにねている伸子の背なかに、つたわって来るようだった。雨戸の上についた欄間のガラスから時々稲妻の青白いひらめきが白い蚊帳の上に光った。一瞬の燐光に射出された天地がたちまちまたもとの暗黒にもどるとき、豪雨はしばらくの間一層きつくなったように感じられる。雨量の大きさには、忍びこみはじめた秋が思われた。伸子は自分のからだばかり不思議にぬれずに、季節の橋の上に横たわっているような心持がした。庭の夏草の根を洗って流れる水は、床の下に淙々《そうそう》と流れている。
夜なかのこの豪雨を、やっぱり蚊帳の中によこたわりながらおそらく目をあいて聴いているひとがある。伸子は、そのひとのおとなしく七三にわけて結った髪の形を思った。そのひとは、つつましく化粧して白の喪服をきていた。亡くなった相川良之介が灰となって葬られているのはいいことだった。さもなければ、あの夫人は、この雨の音を、自分の悲しみの上に聴きしめていることは出来なかったろう。いとしいもののからだに流れる水を思えば、いるにいられない思いだったろう。
その豪雨は、宵の口からふり出した。昼間はポプラの梢の上に白雲の浮き出た空がギラついていた。その空が見上げられる縁側に椅子を出して、伸子がかけている。小卓をはさんだ向い側に、大柄の瀧じま明石に絽の帯をしめた大島のり子がいた。二人は初対面であった。のり子は、その頃女子学生のために開放された大学で哲学の勉強をしていた。そして、ピアノに堪能であるらしかった。
「下宿ぐらしといったって、ピアノまでもって行っていらっしゃるなら、いいわ。――よすぎるくらいだわ」
伸子は、半分ふざけて、それがまさか、と否定されることを予想しながら、
「ピアノはなんなの? ベッシュタイン?」
ときいた。のり子は、
「あっちのはひどいのですけれど……」
自然な調子で、
「うちのはそうでございま
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