切られた頁の上にその文章をよんだとき、そこに相川良之介らしい文学的[#「文学的」に傍点]悽惨ばかりをつよく感じたのは、伸子の理解が浅薄なためばかりだったろうか。
いまになってみれば、それは「ある旧友への手紙」の中にいわれているとおり三年がかりの死への準備行動の一記録であった。よだれをながしながらも、正気を失わず、一歩一歩と死に入って行っている人間の文章が、どうしてもっときのままの恐怖でよむものをうたなかったろう。すべてが、こんなにあるままにかかれていて、それだのに、相川良之介は、どうしても文学的[#「文学的」に傍点]姿態からぬけられなかった。
率直に、漠然とした本質をそのまま「ただボンヤリした不安」と告白されているとりとめない不安を相川良之介が自分の将来にたいして感じはじめたとすれば、それは、彼の聰明さが、才能的な聰明の限界というものを直感しはじめたからではなかったのだろうか。そう考えつめれば伸子にもわかるところがあった。
けれども、やはりわかりきらなかった。彼のような博識と聰明とが、なぜ自覚されはじめた限界感の内側にとどまっていなければならなかったか。そこのところがわからなかった。相川良之介が、生活と文学との上に追随を許さない独自のものとして画して来たスタイルを、こわすまいとして、死を選んだというより、死にまで自分を追い立ててゆく過程で、もしや自分が自分をぬけ出ることがありはしまいかという期待がもたれたのではなかったか。それも、伸子にそうも思えるというだけで、彼の作品から直截にわかることはできなかった。
そのようにこみ入ったそのわからなさを、伸子は、自分の生活にもどこかでつながったものと感じた。その意味で自分にもボンヤリした不安はあるということが出来ると思った。自分だって、よりよく生きたいとねがい、痛切に生きることを感じながら生きたい、と思っていることはわかっているが、それならばどういう風にしてそれを実現してゆくかときかれて、答えられるようなへんじは伸子になかった。伸子は、現在の生活に感じている不満についての側から話すことは出来た。けれども、そこから育つ新しい方法については、わかっていなかった。素子はロシアへ行くときめた。伸子自身はどうなるだろう。のこるだろうか。ゆくだろうか。それもわかっていない。金銭の問題を別にして、自分の心の必然としてわかっていないのであった。
伸子は、自分の生活にあらわれるそんな様々のわからなさ、自分流のボンヤリした不安が、ほかのひとのところにはないのだ、と思うことは不可能だった。文壇の沈滞ということが、この二三年いわれつづけて来ている。「秋刀魚」の詩で有名な詩人は作家の経済事情が文学を沈滞させると、原稿料問題を新聞にかいた。それに反対して、原稿料の問題だけが文壇と文士を沈滞させているのではない。文士が余り常識的で平穏な日常生活に腰をおろしすぎてしまったからだ。人生への冒険の気魄を失ったからだ。そこを考え直さなければならないと、小坂村夫が書いた。それはつい先頃のことであった。しかし、そういう小坂村夫自身は、彼自身の人生と文学とを冒険させる機会を発見することに熱心であるとも見えなかった。無産階級文学の理論にたいしても昔ながらの芸術性をいって、相川良之介のように条理にたって、玉は砕けるが、砕けない瓦、文学の母胎としての民衆を信じるとはいわなかった。相川良之介が、東京の炎暑の夜を徹して涎をたらしつつ、手をふるわせつつ、透明になった神経の力を奮いあつめて最後の幾行かをかいているとき、小坂村夫は、日光かどこかの涼しい湖でマス釣りをしていた。「マス釣り」という随筆が、相川良之介の葬儀と前後した日の新聞に出た。盛夏になればマス釣りもなどと、それは小さな安定におさまった人間の最も常識的遊楽の一つではないか。どこに人生の冒険の気魄があろう。伸子はそのひとの書くりきみ[#「りきみ」に傍点]と、現実の生きかたのなまぬるさとの間に激しい軽蔑を感じた。その矛盾は、相川良之介の死によって見直される気配もなかった。文学が沈滞している。それは、人間らしさの沈滞と別なことであり得るだろうか。そう思うと、伸子には、この沈滞を貫いて、命がけの抵抗をつづけた相川良之介という一条の光道に、深い深い意味を感じるのであった。だのに――相川良之介! 相川良之介! 伸子は無限の哀感としりぞけることの出来ない否定の絹糸にしばりあげられて、汗にとけこむ涙を流した。彼の悲劇は、命がけであることさえ文学的[#「文学的」に傍点]至芸と崇拝されなければならないところにあった。
相川良之介の葬儀は、七月二十七日谷中の斎場で行われるという通知が伸子のところへも来た。情のこもった悲しみが式場のぐるりにみなぎっていて、いつもはいろいろの会場で一つにかたまっている姿を美しいとは見られない文学関係の婦人たちが、きょうはいちように喪服で、しとやかに群れ立っているのも情景にふさわしかった。伸子は、式場では決して泣くまいとかたく心にきめて家を出た。柩は、生きていたときの相川良之介のある美しい気分や趣味をしのばせるようにすき間なく純白の花々につつまれ、あまたの蝋燭のきらめきに飾られていた。紋服白足袋姿の「湯島詣」の作者が先輩総代として、硯友社調の弔詞を朗読した。短躯の久地浩が友人総代の弔詞をよみはじめたが、彼は、せき上げる涙に耐えず、友よ! 安らかに眠れ! というくだりは辛うじて会衆にききとれるばかりであった。さざなみのひろがるようにむせびなきがおこった。
「君去りて、我らが身辺とみに蕭々《しょうしょう》たるをいかんせん」
泣くまいとする伸子の唇が、はげしくふるえた。久地浩の哀傷は丸く短いその全身からほとばしり、ひとり去った旧友相川良之介に向って、彼によってあらわされていた彼等同時代人の芸術性もともに終焉したことをかなしみ訴えるようだった。そのようなまじりけない悲傷を語っている久地浩は、最近の数年来大衆作家となり、出版社をおこし、企業家として成功しつつあった。腕に喪章をまき、日ごろのあからがおも蒼ざめて見える久留雅雄は、やはり通俗作家となって、昨今文壇に流行をきわめている麻雀のもとじめとゴシップされていた。
生きつづける友人たちの生の営みは様々であるが、相川良之介をかなしむ思いではひとつにながれていて、伸子は、白い花ときらめく蝋燭の灯にちりばめられた式場に声ない哀悼の合唱を感じた。生きるために生きることを拒絶しない人々は、それを拒絶して翔び去った友人の最後のかどでを、真情の手に舁《か》いで送っている。伸子は、黒と白と金色の悲しく美しい「オルドス伯の埋葬」というグレコの絵を思いおこした。
こらえていて涙が汗にかわって全身からにじみでたあとのようにぐったりして、伸子は谷中の式場から動坂のうちへまわった。
「大層な疲れようだこと」
かり着の浴衣にくつろいでも、口がきけないようにして冷たいものばかりのんでいる伸子をよこから眺めながら、多計代がいった。そして、つつみきれない好奇心で、遠慮がちに、
「――お葬式、どうだったい?」
ときいた。伸子は、すぐ答えられなかった。そういう風にきいたり、話したりするにふさわしい感情が伸子のなかになかった。忘れたころになって伸子は、ひとりごとのようにいった。
「相川良之介というひとが、芸術家だったことだけはたしかだわ……ああいう風に友達からおくられることができるんですもの……」
伸子の記憶のなかに、軽井沢で死んだ武島裕吉の葬儀の日の光景がよみがえった。式は、麹町辺にあったそのひとの大きい邸宅で行われた。鯨幕をはりめぐらした玄関から、故人の柩の前まで、更にそこから出口まで、白布がしきつめられ、柩の横に、礼装の親族が立ち並んでいた。そこには、幼い二人の遺児もつらなっていた。静かに動いている弔問者の列に加わって歩きながら、伸子は、作家武島裕吉をじかに感じられなかった。重大な儀式がとり行われるような場合にことに際だってあらわれるその家の格式のきびしさが、万端にみなぎっていた。それは、古風であるとともに世俗的であり、そういう雰囲気のうちで、葬送される武島裕吉の感傷的に柔かい相貌が映されている棺前の写真を眺め、焼香するとき、伸子はつい涙をこぼした。武島裕吉が生きつづけられなくなった生活環境の矛盾そのものが、上流人らしい老若の顔々となり、威儀を正した喪装のそよぎとなってそこに立ち並んでいた。――
多計代は、また自分を抑えられないように、その作品で知っている作家たちの名をあげた。その人々も来ていたか、ときいた。
「ねえ、お母様、全体がまるでちがうのよ。普通立派なお葬式とか何とかいう、そういうのとは、ちがうのよ。ね、だから、もうきかないでさ」
「それゃ、もちろんそうなはずですよ」
そして、
「本当に、相川良之介というひとは、独特だった……覚えているだろう、伸ちゃん。あのひとがうちへ来たとき……」
世間並の礼儀は一応まもらなければならないが、しんからの話相手とは出来ず、いくらか手もちぶさたなような、退屈なようなとき、相川良之介は、両方の手を、蠅があしをすり合わせるような工合にして、もて扱う癖があるらしかった。彼や久留雅雄が同人雑誌に作品を発表したばかりの頃、本をかりるために相川良之介が動坂の家へよったことがあった。そのときのことを多計代はいうのであった。伸子は、そのとき、どんなに相川良之介が、その手もちぶさたらしい手つきをしたか、はっきり覚えている。
伸子は、きょう、ここへよったことは間違っていた、と思った。伸子は悲しそうに黙っていたが、やがて、
「わたし、すこしねて来ていい?」
ときいた。
「あんまりくたびれたから……」
多計代は、すこしびっくりして、
「さあ、さあ、おねなさいとも。――でも大丈夫なのかい、ただねるだけで」
「いいの、いいの」
青桐の葉ごしの光線でその座敷にしかれた蒲団のシーツの白さが緑に光るようなところで、伸子は、団扇を顔の上において、本当にすこし眠った。
となりの室で多計代が何かいっている声で伸子は、目をさました。
「なるたけもって行くまいよ、ね、きりがありゃしないもの」
つや子の学校も夏休みになり、近日中に、東北の田舎の家へ出かける、その仕度であった。
伸子は、真夏のひるねからさめた新鮮な顔つきでそこへ出て行った。
「いつお立ち?」
「四五日うちには立たなくちゃなるまい」
「ことしは誰が行くの」
「さあ……ともかくわたしは出かけるよ、またあせも[#「あせも」に傍点]がこわいから」
多計代は糖尿病をもっていた。あせも[#「あせも」に傍点]がよって、悪化して、大変苦しんだことがあった。それから、夏の間は東京にいないことになっているのだった。
「お父様はだめ?」
「それゃ、一寸はおいでになるだろうけれどね、例のとおり忙しいから――保さんは来るよ」
そういえば、伸子が来たときから保が見えなかった。
「保さん、うち?」
「ああ」
満足そうに多計代は、
「あのひとは相変らずさ、よく勉強している……この節は毎朝六時すぎに出かけて、ドイツ語に通っているよ」
フランス語の文丙にいる保がドイツ語をはじめた、ということは一応高等学校の上級生らしいことであった。けれども伸子は、ドイツ語ときくと、そこに越智を連想され、ひいて、保の日頃から思弁ぐせにつらなって考え、単純にきけなかった。保は、このごろも越智のところに出入しているのだろうか。
伸子は、うちにいるという保に会うつもりで、いつもの二階の北側の小部屋へ行ってみた。鴨居にはられているメディテーションという貼紙のはしが暑気に乾き上って少しめくれかかっている。机のよこの障子は、はずされていて、内庭の八つ手の梢の上に高くそびえているタンクでモーターが鳴り、風呂水をくみ上げている。保はそこにいなかった。保がいないで開放されている書斎を見まわして、伸子は、そこにあるどの本棚も、例によって教科書ばっかりなのに、いまさら不思議な気がした。この前、ここで保としゃべったりした
前へ
次へ
全41ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング