るらしかった。
 彼の書斎へはあれやこれや、訪問客が殺到するらしかった。ある場合には、そういう訪問者のある人に、相川良之介は春画を集めたものを出してあてがった。訪問者は、それを、さも古今にめずらしい芸術的名画でも鑑賞するようにしかつめらしくいつまでも黙って見ているから、大変扱いよい。そういう意味の文章をよんだことがあった。伸子は顔の赤らむ思いがあった。彼の作品や人柄にひとかたならず興味をひかれるところはありながら、どこかにこわいものを、感じつづけて来た隠密の原因がおのずからわかる気がした。その短い文章をよんだとき、伸子は、それとは時のちがういつだったかに、ある文壇的な社交の圏内にいる若い女性の書いたもののなかに、ちらりと、相川良之介の書斎におけるそういう絵の話があったように思った。
 相川良之介の、作品の技巧的なそつのなさ、機智、警句的な文体、それらは、彼の小説の主題が、すべての人間の心情に直接迫るようなものであってさえも、伸子には、つくられているうまさが気になった。
 伸子の記憶のなかに、きのうのことのように一つの情景が浮んだ。夏の終りのある宵のことであった。そこは、相川良之介の住居からも遠くない楢崎佐保子の家の二階の客間であった。古風なゆったりした床の間に大雅堂の絵がかかって、支那の壺が飾られていた。電燈の下の紫檀の長い大きい卓の、床の間を背にしたところに楢崎夫妻の謡曲の師匠が坐っていた。その右手に楢崎、向いあう側に伸子と佐保子とがいて、謡曲の師匠に相対す座に相川良之介が坐った。永年夫妻で謡曲を習練して来て、鼓も打つ佐保子は、師匠の謡を、精彩のこもっている絶頂と思われたその頃、近い友人に聴かして置こうというこころもちで、伸子もよばれた。
 佐保子たちの流儀は金春《こんぱる》であった。花間金次郎の「道成寺」などを観て、伸子は運動というものをほりつめて精髄だけ凝結させたような古典の芸術を面白く思った。佐保子が切符をくれて、そういう見物もしたのであった。母の多計代が少女時代に観世《かんぜ》の謡曲を習って娘の伸子は、子供のときからゴマ点のついた謡本になじみがあった。多計代の、いかにも自分の声量にこころよく身をまかせた謡いぶりは、素人のなぐさみとしての安らかさであることもいつか会得していた。佐保子の師匠であるその中老人が、着ていた夏羽織をぬいで、端然と坐り直し、腹からの声で謡った一曲は、小規模であるが精煉されていることとその気迫で震撼的な感銘を与えた。日本の封建文化の磨き上げから生じた艶、量感が感じられた。

 伸子は、だまって楢崎夫妻やその師匠、相川などの間に交わされる話をきいていた。それは全く大人の話しぶりであった。伸子は自分をまるで羽根の生え揃わない不器用なひよっ子のように感じながら、坐っていた。しばらくしてから、佐保子が、画帖と硯をもって来た。師匠が、肉太な書体で自分の名だけを書いた。新しい頁をひらいて、画帖は伸子の前にまわされた。伸子は、当惑した。画帖に書いたことがなかった。そういうものに書くということが、なんだか年にも柄にもふさわしくなく思えた。伸子は、困った様子で、かたわらの佐保子に、
「わたしはかんべんして――字なんか下手なんですもの」
といった。すると、佐保子は、
「そんなことわかっていますよ、誰もあなたの字が上手だとは思ってはいないのだから、さっさとおかきなさいよ」
といった。
「なんて書くの?」
 伸子は、こういうものに、なにをなんとかいていいのか見当がつかなかった。
「わからないわ」
 いくらかもどかしそうに、佐保子はその卓の上に出ていた謡本を手にとった。そして、偶然一つの頁がひらいたとき、その一くだりをよんだ。
「じゃ、これでも書いておきなさい」
 それは、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、という文句であった。伸子は、その文句が、自分の今そこに坐っているこころもちの静けさとは反対であり、むしろ、伸子のとりなしのぶま[#「ぶま」に傍点]さにもどかしさを感じる感情のリズムにあった文章のように思えた。しかし、筆をとって、卓の上にひろげられた画帖の上に、風趣のとぼしい不確かな字で、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、と書いた。画箋紙は墨をはやく吸って、たどたどしい伸子の筆あとは、一層ぎごちなく見えた。伸子は汗ばむような思いだった。
 画帖は、相川良之介にまわった。彼は、その夜、白地に蚊がすりの麻の上に、夏羽織を着ていたが、もち前の慇懃な身ぶりで、画帖をすこしさかのぼってめくった。それから、新しい頁をひらいて眺めていたが、一寸座蒲団の上で体をずらせ、みんなが視線をあつめている卓の上から硯と画帖とを自分の左手の畳の上におろした。そして、じかには誰の視線も届かない方を向き、身を折りかがめて、なにかをかきはじめた。伸子のところからは、畳の上にかがみかかった相川良之介の折目だった単衣羽織の背中から胴にかけてのもり上りしか見えなかった。
 しばらくそちらを眺めていた主客が、おのずと卓の上へ顔をもどして、物をいいはじめるぐらいたっぷり手間がかかった。相川良之介は、本気でなにかかいているのだ。伸子は、画帖という風なものは、さらりと、そのときの興によってかかれるものと思っていたので、相川良之介の仕事に向ったようなうちこみ工合を心のうちにおどろいた。
 出来たのは、その頃、相川良之介の絵として有名になっていた河童の図であった。背の高くやせた、しかし丈夫そうな脚をした河童が笹枝をかつぎ、左手に獲った魚を頬ざしにしてつるしてゆく姿が描かれた。我鬼と署名されている。
 相川良之介は、だまってその画帖が人々の前をまわされるのを見ながら、煙草をくゆらしていた。一座の人々は、それが洗煉された態度であると見えて、格別、ほめもせず批評もしないで、しずかにまわして見た。相川良之介が、どうぞKaPPaと発音して下さい、という前書をつけて発表した「河童」という作品は、河童の国の出来ごとになぞらえて、警官の弁士中止! という叫びまで描かれた諷刺小説であった。心情の噴出による諷刺であるというよりも、相川良之介らしい、知的な諷刺であった。それは、伸子にちゃんと理解されない部分があったし、理解される部分にたいしては、そのビイドロの破片のように鋭くひらめく知性を、例によって懐疑した。
 そのようにして、佐保子の画帖に河童図の描かれたのは二た夏ばかり昔のことであった。伸子は、自分がさしずにまかせて、いとどしく、という文章を書きうつさなければならなかったその宵の切ない心持を思い出すよりもしばしば、そして、その度に考えこむ気分に誘われながら、相川良之介が、あんなにむき[#「むき」に傍点]に、人目から画帖をかくして、描いていた姿を思いおこした。人々の視線の下に一筆一筆をさらして描くようなことをしなかったのは、いかにも相川良之介らしく思われた。それから、自分の描くものは、どれ一つにしろ最上の出来栄えであろうと欲する心持も。伸子は、何かの文章で相川良之介が、僕はあらゆる天才にならわんとするものなり、といっていたのを思った。画帖を人目からかくし、あんなに本気で一つの河童図をかいていた相川良之介の様子は、伸子にかえってそのひとのうちにある一途な、わき目をふらない気持を感じさせた。それは、伸子に好感をもたせるものであった。だのに、もし、伸子が何かの機会にその感想を彼につたえたとすると、相川良之介は、少くともそれにたいする返事としては、また伸子にとって真偽のわからないような逆説をはくであろう。普通のことばで物がいえないひと。そのために、軽蔑する自分のエピゴーネンからつきまとわれずにいられなかった人。偶像と教師になる愚劣さをしんから軽蔑して、いくつかの小説にそのこころもちをかいていながらも。――
 伸子は自分の机のところへ、その朝の新聞をもって行って、ひとりで見ていた。新聞の写真の上に目をおとし、自分とほとんど同じ頃文学者として出発し、声名を博し、僅かの年長で生涯を断って逝ったひとのことを思いつめると、伸子は、また、刃の鈍い桑切庖丁のようなもので隈なくからだを刻まれるような苦しみを感じた。機智をつくし、知的な精緻をこらして自分の生活と文学とをもって来た相川良之介が、「ある旧友への手紙」で、こんなに淳朴に、若々しく、流露する心情を語っていることに、伸子は涙を抑えようとしても抑えかねた。「ある旧友への手紙」でだけはこう書くしかなかった相川良之介の人間としての一生にたいして恐怖と感動があった。どの写真も、相川良之介といえばその知的な風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]を標榜して、額におちかかっている髪や、敏感な口もとや、じっとこらされた眼に焦点をむけているのであるが、相川良之介の、やや上眼にこらされている瞳のうちには、知的で硬い自足したような辛辣さはちっともなかった。それは温和とはちがった柔軟さ、聰明というものの本質的なしなやかさでかがやいていた。憎らしく押しづよいものはどこにもなかった。写真のその眼を見て、中学生でも最後の思いには書くであろうような「僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」という文章をくりかえして読んだとき、伸子は、相川良之介に代表された人の心というもののいじらしさにふるえるようになった。そして、丸めて口に当てたハンカチーフから声をもらして泣いた。

        二十

 大きな音をきいたあと、耳のなかが変にカーンとして、自分の声もひとの声もよく聴えないようになる。相川良之介の自殺を新聞で知ったあと、伸子は心理的にそういう状態に陥った。朝おきてからねるまでにする自分のあれこれの動作さえ妙に身に添わず、周囲の出来ごとは遠のいて感じられた。同時に、大きすぎた衝撃にひきつづいたその反応の鈍いような状態は相川良之介の死という事件をめぐる外界にも感じられた。
 数日来ことのほか暑くて、庭の夏草のいきれさえ息苦しいような家のなかで、伸子は、いまは鈍刀の庖丁で刻まれる思いから、ほそい絹糸でからだじゅうをきつく縛られているような痛さで、相川良之介の行きくれてきわまった人生の過程を辿っているのであったが、新聞は、七月二十五日の朝相川良之介の自殺を大きく扱っただけで、翌日はもうそれについてどんな特別な記事ものせなかった。ただ早川閑次郎が、相川良之介氏の自殺について、という題で、それが特に社会的または文学的な意味をもつ死でないという結論の感想を発表しているだけだった。朝日の文芸欄などは、楢崎佐保子の「時と世間《モンド》」という別荘生活者の夏季随筆だけをつづけてのせている。伸子は、不思議な気がした。
 相川良之介というひとは、作家のなかでも広汎な読者をもっていた筈であった。外国の小説はよむし、漢詩もよむが、日本のいまの小説は、という人たちでも相川良之介の短篇をよむことは恥かしいと思っていなかった。そういう意味で相川良之介は漱石の系統での最後の文人であった。伸子はそう理解して来ていた。作家の間では、芸術的な良心の点で一目おかれていた相川良之介であった。その相川良之介がこういう風に彼の一生を閉じなければならなかったということは、彼を肯定して来たすべての人々にとって、また彼を肯定しきれなかったすべての人々にとって、ひとごとでなく迫ってゆくことではないのだろうか。
 前月号の「文芸春秋」に相川良之介の「侏儒の言葉」という作品がのせられていた。いま再び頁をひらいてその作品を読めば伸子は身の毛のよだつ思いがした。「彼はペンをとる手さえふるえだしたのみならず、涎《よだれ》さえ流れ出した。〇・八のベロナールをつかいさめたのちは、はっきりしているのは僅か半時間か一時間だった。彼はただ薄暗い中にその日暮しの生活をしていた。言わば刃のこぼれてしまった細い劒《つるぎ》を杖にしながら」
 そのようにふるえる手にペンをとって、その文章の中で現に相川良之介は涎をたらすようになってゆく自分というものの姿を凝視しそれを書いているのだが、その雑誌の特色として四段に区
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