とで、伸子はあとまでどんなにせつない思いをしたことだったろう。佃も、うけないでいい侮辱をこうむった。自分がしたいとおりに生活するのなら経済上のことも自分でやるがいい。そういって、多計代は、佃と伸子とを動坂の家から出した。それ以来、伸子は現在のようにして暮して来た。
「話せば、出してくれるかもしれないけれど、わたしはいやだわ」
「それゃ、そうだね」
素子は肯定した。が、じゃあ、ぶこちゃんの方はどうしよう、といわない。伸子は、ロシアへ行くというようなことについて、ちっとも考えを組立てていなかった。だから、いま急に素子が行くといっても、実感はそこになくて、どうせ行くならフランスも見たい、と漠然とした計画を感じるだけであった。けれども、二人のこの数年来の生活で、素子が、この話を、自分が行く計画としてだけ話しだしたことは、伸子を別の角度から複雑な心もちにするのであった。
「行けばどの位行くの?」
「さあ……」
素子は、しばらく躊躇していたが、
「どうしたって二年だろう?――その位いなくちゃものになるまい?」
そういいながら、素子はちょっと苦しそうな眼をし、うすく顔をあからめた。伸子は諒解した。素子は、こんどは、本当にひとりでも行く決心になっているのだ、と。そして、素子がひとりで外国へ行くようなことが実際におこれば、伸子とこうして暮して来た生活の形は、根本からちがったものになってゆくしかない。素子にはそれもわかっているのだ。伸子は、一層複雑なこころもちになった。伸子が、二人の生活ぶりに対して日頃心にわだかまらせている様々の疑いを、素子は察していて、こういう形で自分の方から全生活を変化させようと考えているのだろうか。伸子は、いよいよわたしはどうするの? といいにくい心持になった。それは素子がきめることではなくて、伸子自身がきめていいことだと、思われているのかもしれなかった。
「とにかく、わたしにかまわず仕度した方がいいわ」
伸子は、おとなしく、すこししょげていった。
「わたしの方には、お金のあてもないんだもの……」
「じゃ、この原稿を渡しちまったら、ともかく京都へ行って来る」
いまにも椅子から立ち上りそうに素子はいった。
「万事はそれからのことさ」
――しかし、まるで唐突に生活が大展開した。……その夜、金魚の絵のついた団扇で蚊を追いながら縁側の柱によりかかっていて、伸子はおどろきのやまない気分だった。素子の性格のなかには、伸子とまるでちがったあらわれかたをする実行性があった。それがこれまでの二人の生活の急所でバネを押す力となって、移って来ている。そもそも二人が、一つの家に暮すようなきっかけとなったのも、どちらかといえば素子のそういう実行性の刺戟であったし、こんどのことにしろ、日頃はこまごまと煩瑣な素子に、予想されないような決断が働いている。
「――あなたは、なかなかえらいところがあるひとなのね」
伸子は、わきで白い団扇をつかっている素子にいった。
「どうしてさ」
「だって……生活の舞台を大きくまわすことを知っているんだもの」
こういうときには、かえって受動的な自分を伸子は感じた。そして、きいてみたかった。ほんとに素子は、向上心だけで、外国へ行こうと決心しているのかと。素子だけが外国へ行く、ということが伸子には、切迫した実感としてうけとりきれなかった。ひとり日本にのこる自分の生活の変化ということの実体もよくわからなかった。伸子は冷静なような、また、非常に動揺しているような気持で、夜の庭の夏草が室内から溢れる皎々《こうこう》とした電燈に照し出されて、不自然にくっきりと粉っぽいように見えているのを眺めた。
十九
東京の夏は、いつも七月二十日前後からひとしお暑気を加えて来る。その夏は近年にない酷暑ということで、新聞の写真版もあらそって涼味をもとめていた。
外国行の話をしてから、素子はその暑気の中を精力的に動いた。そして、二三日うちに京都へ出発するところまで用事を運んだ。
「やれ、やれ、これであした日本橋へ行けばもうすっかりすんだ!」
日中は乾くまでが暑くるしいと、夜あらったどっさりの髪を肩にひろげて、素子はうまそうに煙草をすった。日傘をささない素子の顔は日にやけて、湯上りの鼻のみねが、うす光りした。
あくる朝、伸子はいつものとおり、素子よりひとあしおくれて起床した。そして、蚊帳をたたみ、床をあげてから、茶の間のそとの縁側を通って風呂場へゆこうとした。すると、
「ぶこちゃん」
妙にしんとした声で、素子がちゃぶ台の前からよんだ。
「いま、すぐ」
そのまま髪を結いに行こうとする伸子に向って、素子はなお息をひそめたような声で、
「ちょいと来てごらん」
手にもっている新聞で招くようにした。
「――なにかあるの?」
櫛をつかいながら及び腰に、素子がひろげたまま、見せるその朝の新聞に目をおとし、伸子は、表情を変えて、そこへ膝をついた。
「やっぱりこういうことになっちまった」
素子が呟いた。伸子は沈黙して、上下の唇のまわりに白い輪のでたような顔つきになって、紙面に大きく複写されている作家相川良之介の写真を見つめた。痩せて、髪を特徴のある形でよく発達した前額の上にたらし、一種の精気と妖気とをとりまぜて、写真の上にも生々しくうつし出されている。当代においても最も芸術的であると云われていたこの作家が自宅で昨夜劇薬自殺を遂げた。その報道である。
肩に髪を散らしたまま、伸子は紙面全体に目をはしらせた。故人の親友の一人であった久留雅雄が、記者団と会見をしている写真を見、遺書として公表されている「ある旧友への手紙」という長い文章を読んだ。伸子は、全身にうけた衝撃を内容づけて、それで自分を落ちつかせるに足りるなにかをさがすように、新聞をよんだ。けれども、そこにかかれてあるすべての詳細な記事や久留雅雄の談話はもとより、「ある旧友への手紙」そのものでさえも、伸子のうけた衝撃の裏づけとなるだけの質量をかいていた。
伸子は、涙をおさえた悲しい顔をかしげて、しずかに櫛をうごかし自分の髪を梳いた。ほんとに、なんといっていいかわからない気がした。思いがけない、とか、本当にされない、とか云えるならばそれはいくらかうけた衝撃をまとまりやすい感動の言葉で表現できただろう。相川良之介の場合には、この作家の精神と肉体との危期が書くものにもにじみ出しはじめていることは、彼の芸術を理解するほとんどすべてのものが最近になって直感していた。鋭い稜角を常に示しつづける彼の知性の頂点と人間的な危期とは、最近この作家の作品とその風格の上に云うに云えない鬼気となって漂った。そして、それこそはこの作家の純芸術家としての光彩であるように目をみはられ、讃えられた。そのぎりぎりのところまでいって、とうとうこの作家は生きられなかった。生きられなかったのは、常識にたって、彼の死に驚愕し悲しみ、記者対談をやっている旧友の誰彼でもなければ、こうやって新聞をみて声をのんでいる伸子のようなものでもなく、人々から賞讚され、どっさりの追随者と模倣者とを身近にもっていた、作家そのひとである。
伸子は、刃のごく鈍い大きい桑切の庖丁のようなもので、からだを、刻まれるような痛苦を感じた。
「――くるしい」
そういって、伸子はもっと空気を求めるように白いやわらかいのどをのばして顔をあおむけた。
「だめだよ、ぶこちゃん! しっかりしなくちゃ」
「しっかりしている……でも――苦しい」
「…………」
「かわいそうに……」
心からそういって伸子は、眼にいっぱい涙を浮べた。
「ある旧友への手紙」は、びっくりするほど素朴に気取らない文章でかかれていた。日頃のこの作家につきものであり、それが伸子に親愛感を失わせていた文章のいいまわしの知的なポーズがなくて、「僕の場合はただボンヤリした不安である、何か僕の将来に対するただボンヤリした不安である」と、自殺を思いはじめた心理的な動機がかかれていた。「僕はこの二年ばかりは死ぬことばかりを考えつづけた」「気づかれないうちに自殺するために数ヵ月準備したのち、自信に到達した」「僕は冷やかにこの準備を終り、今はただ死と遊んでいる」「僕は昨夜ある売笑婦と一緒に彼女の賃銀! の話をしみじみし、『生きるために生きている』吾々人間のあわれを感じた」「自然はこういう自分にはいつもより美しい。僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」伸子はくりかえして、それらの文章の断片をひろいあげた。自殺の準備について、「僕は冷やかにこの準備を終り」とかかれている。何と思いがけないおさなおさなした天真さだろう。これまで自殺したどっさりの青年たちが、この冷やかに[#「冷やかに」に傍点]という自分の状態を遺書のうちにかいて来たのではなかったろうか。理智的な技巧と措辞の新奇さを一つの特色として来た彼がそれを、陳腐ともしないで誠心こめて自分の最後の文章のうちに書いている相川良之介のてらいのなくなった心。そしてまた、「僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」と、ほんとに誰にでもその感じのわかるいいかたで一生をしめくくる最後の思いを語っている。「ある旧友への手紙」は伸子に、桃や柿の種のしんにある真白な芽を思わせた。作品にあらわれる相川良之介、或は作家相川良之介の趣味は低くなかったけれども、そこにはいつも人為的なものが感じられた。殻がくだけた最後に、はじめて白い、いじらしい、淳朴な人間性のふた葉がむき出された。
ひやひやになった伸子の手のさきをとって、
「さ、ぶこ、御飯にしよう」
素子が、励ますように、こわい声を出した。
「だらしないじゃないか――そんなに動顛するなんて……」
単純に動顛ということをいうなら、伸子は六七年前に武島裕吉が軽井沢の別荘で女の人と縊死した事件を知ったときの方が動顛した。動顛して、いく度か感歎詞をもらしたし、その葬儀のとき、焼香をしながら涙をこぼし、格式だかい遺族の人々の注目の前に自分を恥かしく感じたりした。動顛というよりもっと複雑なもの、もっと自分の精神にきりこんで来て、何か解答を迫る強烈な衝撃が、この相川良之介の死にある。伸子がしびれたような唇になっているのもそのためであった。
味覚のなくなった舌で食事を終った。素子が、また新聞をとりあげた。そして、「さぞ、楢崎さん夫婦もびっくりしていることだろう」といった。楢崎佐保子のところで、伸子は偶然素子に会ったのだった。「青鞜」のころから作品をかいているこの婦人作家は、良人の専攻であるイギリス文学の系統に立っていて、無産派の文学という問題がおこったころ、謡曲の「邯鄲《かんたん》」から取材した小説をかいたりしていた。あんまり人につきあう習慣のない伸子は、佐保子にだけはおりおり会いに行った。
いつだったか、現代作家の話が出たとき、佐保子は、きわめつけの語調で、
「相川良之介だけは本ものですよ」
と云った。
「あのひとはまがいものではありませんよ。この間うちへ見えたとき、作品が古典としてのこるかのこらないかは、その作品のスタイルによるっていっていましたよ。それは本当だと思うわ」
そして、笑いながら、
「古典になると思ったら、伸子さんもきちんとしたスタイルをもつことですよ」
冗談のように云った。伸子は、いかにも相川良之介のいいそうなことだと思い、
「そうお」
と笑ったが、すぐ、ふっと、それは彼が本気でいったことだったのかしら、と疑われた。文学作品がスタイルだけで古典としてのこるなどということを、伸子としては信じかねた。相川良之介には、彼が彼の背負っている文学的後光そのものをさえ皮肉に感じている口調でいうために、非常に辛辣な諷刺だったり逆説だったりするのに、きくものは文学上の箴言《しんげん》のように考える場合があった。周囲にそういう習慣が出来ているばかりでなく、相川良之介自身、孤独な知的焦躁とでもいう風な意地わるさにとらわれることがあ
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