のだから。――もっときついシュッ! と泡の立つような話。保がどうしてもむき出しに自分の感情の底をわらずにはいられなくなるような、そういう人生の話。伸子はそれを求めた。保の人間性の根っこをつかまえて、その上皮にはりめぐらされたあいまいなものをひといきに破ってしまう、そういうものこそ保に必要なのだ。
 なにが、そういう種類のことがらだろう。伸子は、自分たちの生活のぐるりからそれを見出そうとするしかなかった。越智と母との普通でない交渉。それについて保と自分とでしゃべる勇気は伸子になかった。それならば、きょうのように、美しい小枝を中心に兄が見せた一種の雰囲気を、弟であり、女の子の友達のない保がどう思ってみたか。伸子にはいうまでもなく保の微妙な心もちが映っていた。和一郎が保と正反対の飄然さをつよくあらわしはじめて、余りうちで暮さないようになったのは、弟である保から感じる圧迫感の反射だということを、保が知ったとして、保がどうなろう。――
 客間のなかはすっかり薄暗くなった。青葉はずれの鈍い光が、四角い紫檀の卓の一角と、白い支那焼の灰皿のふちを細く光らせているばかりで、奥の椅子にふかくかけている保の顔は、伸子のところからほとんど見わけられなくなった。窓ぎわにいる伸子は、逆光でぼんやりシルエットを浮き上らしたまま、二人の姉弟は灯をつけないその部屋にかけていた。保をむき出しにしてやるちからが自分にないということを伸子は自分に承認しかねる撞着を感じながら……。

        十六

 多計代は前崎の家に二十日ばかり逗留した。六月も二三日で終るというころ、伸子は多計代からのよみにくい草書の速達をうけとった。例の好物がなくならないうちに、と書かれている。前崎へゆくと、いつも国府津でかまぼこを買って来るのだった。
 伸子は、茶の間でそのハガキを見ながら、
「かまぼこもらって来ようかな」
といった。
「あすこのかまぼこ、うまいにはうまいが、義太夫でいえば呂昇といったところだね」
 そして、素子はその趣向を批評するように、
「いかにも動坂の人たちの気に入りそうな味さ」
といった。全く動坂の家の空気には、渋いところや、粋なところ、そういう味はなかった。多計代の着物や帯のこのみも大味で、縞でも多計代は大名縞を、娘の伸子の方がこまかい吹きよせの縞をきるという風なちがいがあった。
 動坂の家へ行って、内玄関を上りながら、やっぱり母が帰っている生活はちがうと、伸子はおどろいた。どこがどうともいえないしまりが家の空気についていて、留守中来たときの、あの吹きぬけの感じはなくなっている。家じゅうに、近ごろずっと無かった落着きがある。それは、多計代が前崎から帰って来て、割合うちに落ちついている気分を映している。伸子はうれしい気持で、食堂へ顔を出した。大テーブルの正面の多計代の場所はからで、紫しぼりの座蒲団だけがあった。
 伸子は、
「こんにちはア」
と、大きい声で叫びながら廊下を奥の方へ行ってみた。
「おかあさま、どオこ?」
「来たのかい?――こっちだよ」
 階段下の小座敷から多計代のへんじがきこえた。三尺の茶室風の襖の奥に四畳半がかくれ部屋のようについていて、そこに多計代の箪笥や鏡台がおいてあった。家じゅうでたった一つの炬燵の炉も切ってあった。
「いいの?」
「ああ」
 唐紙をあけると、鏡台の前に坐って、髪を結い終ったばかりの多計代が背中に白いきれをかけたなり、櫛をふいていた。前髪のふくらましのしんに入れる毛たぼを揃える新聞紙がわきにひろがっている。ひとりでゆっくり髪を結った女の気分が小座敷にみちている。それは、伸子に非常に珍しかった。
「坐っていい?」
「ああ」
 多計代は、ひろがっている新聞紙をたたんで鏡台のわきに伸子の坐るところをつくった。
「おはがきありがとう。かまぼこ、まだ大丈夫?」
「伸ちゃんの分は一本別にとってあるよ」
「そうお、ありがとう」
 多計代は、いくらか目立ちはじめた白い髪を、黒いチックで塗り、かくしていた。そういう髪を結ったばかりの多計代の指には、ところどころ黒チックのよごれがついていた。耳にも掠ったような黒さが見える。伸子は、そこにあったちり紙で、母の耳の上についている黒いチックのあとを拭いてやった。
「前崎、よかったでしょう? この間、ちょっと事務所でお父様にお会いしたとき、随分よさそうにいっていらした」
「こないだうち、毎晩、なにをとっていたのか沖にずらりっと漁火《いさりび》が見えてね、ほんとにあの景色はきれいだった」
 伸子は、複雑な意味をこめ、
「行ってよかった?」
ときいた。多計代は、それをごくあたりまえにうけて、
「例によって三四日眠れなかったけれど……いまあっちはいいよ。ああそういえば、伸ちゃん製材所のあったの知っているだろう? カギ半の裏に……」
 ふるい東海道に面し、海を見はらす小高いとこにあるカギ半は前崎の雑貨店で、炭や味噌醤油もあきなっていた。
「覚えているわ――みかん畑のそばの」
「あすこに火事があったよ」
「まあ珍しい……海の水かけて消した?」
「村の手押しポンプが出たりしてね、びっくりした」
 多計代は、櫛のしまつをして抽斗をしめると、束髪のまんなかにいつもさしている鼈甲《べっこう》にガーネットのついた飾りピンをとり、もんだ紙でそれをこまかに拭いた。ひるすぎの明るい小座敷の光線で、ピンにちりばめられたガーネットは深いしぶい紅にかがやいて見事だった。伸子は、そうやって静かに髪を結ったり、ピンの手入れをしたりしている多計代の様子から、多計代の感情が一つの峠を越して、前崎から帰って来ていることを直感した。伸子へのものいいも、温和になっている。そういえば、陽炎《かげろう》と一緒に野火がチロチロ燃え走っているように感情の揺らぎのあらわだった多計代の亢奮した表情は、沈静され、滑らかな頬のあたりはいくらか蒼ざめて見える。伸子はピンの上に落ちている母の視線と、下目に伏せられているまつ毛のかさなりを横から眺めた。
「――あの話、どうなすった?」
 前ぶれなくふっと一枚の木の葉が落ちかかって来たように、伸子がきいた。
「わたし、やっぱり気になるわ」
 多計代は、拭き終ったピンを右手にとり、左ひじを高くあげて髷をおさえながら、束髪の真中に飾りピンをさした。鏡に向って坐っている胸をはって、しっかり、ゆっくりそのピンをさし終ると、伸子の方は見ず、あらためて鏡の中に髪の結いぶりをしらべるような目をやりながら、
「――男なんて……」
 毛すじをとりあげて、前髪の毛なみを直しながら上目で鏡を見据えつつ、
「どうしてああ卑劣なんだろう!」
 伸子は黙って、息をひそめるこころもちでじっとそういう母のそぶりを見つめた。
「あんなことをいっておきながら、いざとなると、逃げだして……」
 あんなことということが、どういう越智の話だったのか、伸子はきいていなかった。しかし、推測された。そのとき越智がいったことは、少くとも多計代にとって、越智と結婚するしかないと思わせた、そのような内容だったのだ。
「前崎から、かえっていらしたことがあったの?」
 越智との間に、いつそういう決裂がもたらされたのだろう。
「いいえ、帰っちゃ来ないよ」
「…………」
 では、多計代は伸子が想像したよりも遙かに激しく行動した。越智をさけて前崎の家へ行き、そこで考えもまとめて来るのかと思っていた伸子の推察よりも、多計代の燃えかたはずっと強烈だった。伸子に、越智との結婚について話した、おそらく次の日かその次の日に多計代はまた越智に会ったにちがいない。多分、人のいなくなった午後のおそいがらんとした研究室で。――そういう建物の中のほこりっぽい無味乾燥な室で、華やかに装った多計代が、においと熱とを放散させながら、縁なし眼鏡を顔の上に光らせて今は臆病にしりごみしている越智に迫ってゆく光景を思いやると、伸子は涙がにじんだ。越智のおじけづきかたが、伸子にまざまざと感じられた。意外の重量が自分の体面の上にくずれかかって来たことにおびえながら、越智は多計代の素朴さ、むきさを侮蔑して考えたにきまっている。その表情が伸子に見えるようだった。越智が理想だといったシュタイン夫人は、十八世紀の小っぽけなワイマールで、調馬師の細君で、宰相であり文豪だったゲーテに恋着されていることを、夫妻ともどもの名誉と思う卑屈な宮廷婦女にすぎなかった。伝説は時になんと愚劣だろう。
 多計代が、その途方もない真率さで、越智にいわせれば、おそらく粗野で、機略も年甲斐もない若さでひた迫りに越智に迫ったことを、伸子はよかったと思った。そこに、多計代の女としての威厳が感じられた。自分の生存の全重量をかけてみて、越智がそれをもちこたえられる男でなかったことが確かめられたことはよかった。けれども、母が、情熱が凝って焔となったようなつめよりかたで、ああおせば越智にこうはずされ、ここをおせばああとにげられ、ついに全く幻滅していったこころの過程を思いやると、伸子はからだがふるえた。自分のこの手のひらの下に容赦なく鳴る越智の顔がほしかった。そういう切迫した場合でも、瀑布のように自分の上におちかかる多計代の情熱を、支え切れず圧倒される人物の悲鳴でこたえる越智ではない。いつもの、あのよせ木細工の衒学と論議で、負けたと示さずに多計代を退かせたにちがいない。おそらく多計代の自尊心がそれ以上耐えられないように、身をかわしながら、……。だからいうのに。――胸いっぱいに渋く湧く涙をとおして、この七つの言葉が伸子の心じゅうに鳴った。
 多計代はもうそれきり何もいわず、鏡台にレースの鏡かけをおろしている。ふっさりと大きい庇の前髪の下に、多計代の顔は堂々と沈静されていて、そのかげに無限の軽蔑がふんまえられているのが感じられた。
 その午後、多計代は珍しく戸棚の前に坐って、息子たちの下着類をよりわけたり、雑巾に縫う布を見つけたりした。伸子はそのわきにくっついて見物していた。そういう家政のことをしている多計代の表情には、何ヵ月かの間、彼女にとって目に入って来なかった家の内の些細なことごとが、いま、はっきり見えて来ている、という風があった。丁寧に、真面目に、いつもより言葉すくなくシャツを畳んだり、布地をわきへどけたりしている。その母の様子には、伸子の心をうつものがあった。越智にたいして、苦しく燃えあがっていた多計代の憧れの焔は、おそらくは多計代として女の若さが自覚される最後の情熱のはためきであった。その不安な激しい生命のゆらぎは、越智の人間の小ささと、感情の冷やかさで哀れにうちくだかれた。けれども、こうして、堂々と軽蔑の上に落ちついた母を見ていると、伸子はやっぱり悲しかった。多計代のあんなに激しい、本気だった女としての動揺も、土台のところでは、決して全生活がそこにかけられているものではなかった。辛辣にいえば、物質の上でみち足り、妻として良人からその肉体もみたされている年配の有閑な夫人が、自分の生活に欠けているものに憧れてそれに敗れたことではないだろうか。もしそうでないなら、伸子には、母が、越智にたいする軽蔑ばかりをつよく示しているのがわからなかった。多計代の眼のなかに苦しさと歎きのないのが、伸子にせつなかった。年や境遇に矛盾するような女としての若さが、計らずもそれを最後と燃えたった。その自分の情に深い哀れを感じてもいないらしいのが、伸子をいたませた。越智が軽蔑される心情をもっていることは事実であるけれども、第三者の目は以前からそれをみていた。多計代は、自分の真情が侮蔑されて、はじめて越智の本質を見出したのだった。軽蔑すべきものに自分の女の心がそんなにも傾いたというその事実を、多計代はどんな風に自分の心の奥にうけとっているのだろうか。つきつめれば奥のふかい自分への失望と歎きを、越智への軽蔑によって支えているように思えて伸子はこわかった。まして、多計代が越智一人への軽蔑を多計代らしく敷衍《ふえん》して「男なんて」というとき、伸子は漠然と恐怖を感じた。伸子は佃とこ
前へ 次へ
全41ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング