を思いおこさせた。和一郎も松浦も、頭をクリクリの一分刈りにして、古びてよごれが光る制服、制帽でいる。そして、ポケットにろくな小銭ももってはいない。けれども、この青年たちとあの三人と、なんと内容のちがう生活だろう。石じき道を垣根について見えなくなって行く三人の生活は、伸子に空虚を感じさせた。駒沢の家へ来た三つのぼうぼう頭とよごれた若い顔々が、それならば、充実した新しい生活を感じさせたかといえば、そこにも張りこの虎めいた空っぽな響があった。
保は、畳廊下においてある洋服ダンスのところでキチンと紺絣の筒袖に着換え、手と顔を洗って、まだ客間にいる伸子のところへ戻って来た。
「きょう、保さん、いそがしいの?」
「そうでもない」
「じゃ夕飯まで話さない? わたしきょうは早くかえるのよ」
「ちょうどいい。僕は夜は少しすることがあるから……」
伸子は、保の仲間がこしらえようとしている雑誌に強い関心があった。
「和一郎さんも中学四年ぐらいのとき、雑誌をやったことがあるのよ、じきやめちゃったけれど。――あなたの、どういう仲間でやるの?」
「ほんの三四人……気のあったものだけでやろうっていうの」
「どんなひとたち?」
「――姉さんにいっても知らない人ばっかりだな」
考えていて、保は、
「姉さん、東大路、知っているでしょう? 外交官の方の子供が、やっぱり一緒に雑誌をやる」
といった。東大路篤治といえば、人道主義の作家として独特な存在であった。そして、近頃、九州の奥に理想村をこしらえて、そこにある河中の岩を、ロダン岩と名づけ、そのロダン岩にもたれている東大路の羅漢に似た顔の写真が雑誌に出たりしていた。
「そのひと、やっぱり叔父さんの弟子なの?」
伸子は、東大路のあんまり空想的な理想村の考えや、自分のぐるりへひとを集めているその気分に、疑問を感じているのであった。
「特別そうというんでもないと思う――だいたいこんど雑誌やるのは、主義やなんかのためじゃないんだもの」
それは、保の日ごろの気持からも推察された。
「それゃそうでしょう。――でも、……どういうの? こういう風につくりたいという方針はあるにきまってるわ」
「僕たち、人に見せるためや威張るために書いたものでなく、本当に自分の心を追究して良心のために書いたものを集めようと思ってる」
「――題、きまった?」
「ううん」
保は首をふった。
「まだ……」
「その三四人のひとだけ書くの?」
「そうしようと思ってる」
「ほかのひとに書かせないの?」
「もちろん書かせたっていいんだけれど――」
癖で、紺絣の大きい膝をすこしゆすりながら、保は柔和なぽってりした上まぶたの下に眼を三白のようにした。
「みんな、すぐ猛烈に議論するんだもの、相手を一生懸命にまかそうとばかりするんだもの――」
「…………」
「こないだも、僕、佐々は馬鹿だ、ってみんなにいわれた」
保のそういう声のうちには、友だちにたいする反抗よりも、いうにいえない悲しみがこもっていた。伸子は、思わずその顔をのぞきこむような心になった。
「どうして?」
熱心にきいた。
「僕は、調停派なんだって。……佐々は生れつきの調停派だって――」
「それは、佐々はバカということになるの」
「そうらしい」
ちっとも皮肉なところなしに保は肯定した。
「調停派って――」
社会運動の歴史も知らない伸子には、どういう意味で高校の学生たちがその言葉をつかうかわからなかった。しかし、字の上から判断して、調停の意味は、だいたいわかる――、
「保さん、そんなに調停するの」
すこし笑って伸子がきいた。保は、
「そうしようと思わなくたって、そうなっちゃう」
困惑したようにいった。
「どっちの議論だって、よくきいてみて、相手に勝とうとさえ思わなければ、みんなそれとしては理窟があるんだもの」
「それゃそうかもしれないけれどさ……」
伸子は妙な顔をした。保のあの不思議に執拗な「公平」がまた出て来た。
「だって、――議論なんてものは、真中に一つ問題があって、それをはっきりさせるために起るんでしょう? だもの、てんでんばらばらに、一つずつの議論がそれとして理窟をもっているというのが眼目にはならないんじゃないの。中心の問題にとって、正しいとりあげかた、正しい解釈というものが当然ある筈じゃないの」
「うん」
「だからさ、正しい結論が出るまでの議論には、見当ちがいなのもあるわけでしょう? そして、それはすててゆくのよ。みんなそれとして[#「それとして」に傍点]理窟がある、というようなのは、変だわよ。――そう思わない?」
「…………」
「保さんが、みんなの議論してるとき、あれもこれもそれとして[#「それとして」に傍点]正しいなんていえば、それは調停派だか何だか、ともかくおかしなことだし、間違っていると思うわ」
保は一層大きく膝をゆすりはじめた。そして、平らかな上まぶたの下からほとんどおこったように苦しく圧縮された視線を伸子の上に射かけた。
「僕がばかだっていわれたときは、暴力論だったの」
「…………」
話がこういう風に展開したことは伸子にとって不意うちであった。伸子の心に革命、赤露、社会主義というような字が次々に浮びひらめきすぎた。
「人類のためよりいい社会をつくるというんなら、なぜそのために暴力なんて使わなけれゃならないのかなあ。――僕、どうしたって暴力ってわるいもんだと思う」
保は、訴えるようにつづけた。
「いいことのために、わるいことをするって、まるで矛盾だと思うんだ。よくないことは、どういうためにつかったってよくないと思う」
やっぱりそうだった。伸子はそう思った。保でさえ、伸子の知っているより遙かにどっさりのことを、仲間と話し、考えあっていたのだ。盟休した二高の学生たちばかりでなく、みんながこういうことを話している。伸子はそれらの青年たちに対して羨望の感情を抱いた。現在まだ続いている問題だと見えて、保はくりかえし、
「僕にはわからない」
といった。
「いいことのためには、絶対にいい方法をとるべきだと思う」
いい方法。――いい方法――。佃との生活が破れかけたころから、離婚してしまうまでの数年間伸子はどんなに、その「いい方法」をさがしてもがきつづけただろう。伸子は善良さと気のよわさと両方から、佃と自分の生活の破綻を何とかして平和に解決したいと思った。出来るだけどちらも傷つけることなく、失敗したといっても、もとは愛情から出発した生活の終りらしく、その悲しみにもどこかに美しさのある調和で終らせたいと、どんなに心を砕いたろう。だが、現実に、それは可能でなかった。最後に佃は伸子を憎んだし、伸子は佃を嫌悪した。そこまで行かなければ、解決しなかった。そこまで互いをむしりあわないで生活の破綻が救われるものであったのなら、初めから佃と伸子との生活に、それだけの深い離反は生じなかったわけであった。伸子はこわさにぎっしり両眼をつぶって、がむしゃらに、ひたぶるに、佃との生活から身をもぎはなした。万事が終って何年かたったいま、伸子は、しみじみと理解しているのであった。夫婦の間の衝突でさえも、それが本質からの原因をもっているものなら、決してものわかりよく手ぎれいに解決することはあり得ない、と。互いにものわかりよく、手ぎれいに解決されるくらいなら、はじめからそんなに衝突しないですむだけの互いの理解がある筈なのだから。伸子は、離婚などということだって、いわば一つの暴力的なことだと思った。そういう意味で自分が暴力的だったのが、わるかったと思っているだろうか。伸子は、それは避けがたかったこととして、その道を通じて生活の展開の可能がつくられたという意味で、自分のしたことを否定していなかった。やましく感じる気持はなかった。
伸子は、自分のその実感を、保の問題にあてはめた。
「わたしには、いろいろなことがわからないけれどね、いい方法って……保さんのいい[#「いい」に傍点]っていうのはどういうのさ」
「絶対に正しい方法」
伸子は、また新しい不安を覚えた。保は、どうして、いつも、そして何についてでも、絶対ばかりをいうのだろう。
「絶対に正しい、いい方法なんて――」
困ったように、確信なさそうに、伸子は横目になりながらつぶやいた。
「いつでも、何にでも絶対にいいなんて、そんな方法ある?」
ユーモラスな気になって伸子は、
「薬の広告じゃあるまいし……」
といった。
「保さんの、さっきの、どの議論もそれとしては理窟をもっているっていうのと、いまの絶対にいい方法でなければいけないっていうのと、ちょっとみると反対みたいだけれど、同じなのね、保さんの考えかたって――わからない」
ものごとを考えるというと、具体的にそこにある問題からはなれてなんでも抽象してしまう保の方法をそれが執拗であるだけに伸子は不安に感じた。
「保さん、そういう話、越智さんとしたことがあるの?」
「すこしある」
「なんてってた?」
「――僕の考えかたは、純粋だっていっていた」
「…………」
純粋! 何ていいかげんのにげことばだろう! 伸子は越智に対して、いつも湧く忿懣《ふんまん》を新たに感じた。越智は、青年たちが自分たちの生の問題としてそういう議論にも熱中するその真情がつかめるような人物ではない。現代の青年はそういう議論をする、ということだけを問題にする能力しか持っていやしない。伸子はくやしそうに、
「越智さんなんかいいかげんに卒業してしまわなくちゃ駄目じゃないの、保さん」
といった。伸子は自分の生活態度を、破壊のための破壊をこのむものだといって、多計代に一つの偏見を与えた越智をゆるすことが出来なかった。越智が多計代にたいしてとっている態度はなんだろう。ああいういきさつは、保の純粋をけがさず、周囲のすべての関係の純粋をみださないことだとでもいうのだろうか。伸子は、保の肩をつかむように、
「あんな人にかれこれいわれて、それがなにかだなんかと思ってたら、それこそとんでもありゃしない。――あんな……」
偽善的なといいかけたその先は言葉が出なくて、伸子はただくい入るように保の眼をみつめた。伸子のそういう激しい言葉づかいにたいしても、保はあらわな反撥も、好奇心も示さず、じっと平静にきいている。伸子の性質にとって、それはもどかしく苦しかった。保は、いつも素直にきいている。でも決して自分というものをあい手に向って解放しない。伸子のいうことも一つ一つと、不思議な粘りづよさで漉して、きいている。むしろ心を動かされることを警戒してきいている。伸子は、そういう保に向って自分の心が溢れるとき、まるでせまい壜の口から一滴ずつ油でも流しこんでいるときのような息苦しさを感じるのであった。
「ね、保さん」
紺絣の太った膝に手をおくように伸子はいった。
「いいことっていったって、そんなに永劫不変な型に入った絶対のものがあり得る? 生活は絶えず動いているのに……あとからあとから新しい条件が出来て来るのに――。いいことっていったって、それは、わるいとわかっていることを否定したり、それをなくしようとして闘ってゆく、そこに生れるんじゃない? いつだって、そうだわ、実際は。……」
自分がそういったことで、伸子自身にも一層現実がはっきりした。本当に! いつだってそうだ。いいことは、わるいこととのたたかいの間につくられて来るのだ。
「まちがった力をどけなけれゃいいことはあり得ないとしたら、なんで正しさを防衛するの? 右の頬っぺたをぶたれたら、左の頬っぺたまで出す? わたしはいやよ。保さんは?」
「そういう場合なら、僕だって出さないと思う」
「でしょう? だもの……」
しかし、保は内心で、そうでない場合もある、とがんこに考えているのだ。それが伸子によくわかった。
こうして何かいっていればいるほど、保の不思議に抽象してものを考える癖につきあっているようで、伸子はますます落着けなくなった。伸子がその考えかたを否定していうにしろ、つまりはそれも抽象的な話であることはおなじな
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