どみんな伸子にあいさつして出て行った。伸子の方でその人を見わけたのは、たった二人か三人きりだったのに。事務所が仲通からこちらに引越して拡大されてから、伸子はあんまり父の事務所へ出入りしなくなってしまった。名をしらず顔さえ見おぼえていない人々から、泰造のうちの者という意味で頭を下げられるのは伸子をいぐるしくさせた。
 青写真の用事がすむと、
「さ、出かけましょうか」
 顎のところに大きいほくろのある人に、来客のことをうちあわせると、泰造はさっさと事務所を出て、エレベーターのところへ行った。そういう泰造の動作は、ずんぐりなからだににあわず敏捷で、伸子はいそいでついてゆきながら、
「お母様、いかが?」
ときいた。母の様子がききたくて、伸子は出て来たのであった。
「ああ、この頃は、夜もねむれるようになったらしくて大助かりだよ」
「お父様、まだずっとあっち?」
「落着いて暮してみるといいね。駅を下りると、空気が全くちがう。第一、朝の心持がすてきですよ。この頃はヴェランダで、はだか日光浴さ」
「お客様なし?」
「絶対おことわりだよ。さもなけれゃ、行っている意味がないもの。あっちから、通っていると汽車の時間があるから、切り上げるのにもかえっていい工合ですよ。たいてい七時すぎにはつくからね」
 食事のとき伸子は、半分ふざけて、
「そういえば、お父様、前崎のモーターどうして?」
ときいた。
「もういいの? 騒動なさらない?」
「うん、大丈夫だ」
 泰造は、よっぽどこりたと見えて真面目に答えた。
「ポンプやの計算ちがいで、結局二馬力のにして、やっとよくなった。はじめっから俺はそれでなけれゃあぶないといっていたのに――」
 事務所へかえる前、泰造は丸ビルへよって髭剃りあとへつける化粧水を買った。
「前崎でいるようなものないかしら。――わたし、これから動坂へ行くから、もしあったら届けてよ」
「何にもいりませんよ」
 泰造は例の、踵の音の高く響く足どりで横浜植木の店のなかをひとまわりした。あてにして見に入ったものがないらしかった。
「ないの?」
「出ていないね、きょうは。前崎の玄関のところの花壇にバラを植えようと思っているんだが……」
 バラというと、伸子は父の誕生日にもって行ったきれいな黄色と白のバラの花を思い出した。つづいて越智が思い出された。
「お母様いつ頃おかえりになる予定なのかしら……」
「珍しくおちついているよ、ゆっくりいるがいいのさ」
「二人でいらっしゃるからいいのよ、きっと。お母様だって落着けるだろうし、お父様ったらひまがなさすぎるから駄目よ、東京ばっかりだと」
 事務所のあるビルディングの入口で泰造とわかれて伸子は動坂へまわった。
 門を入ってゆくとピアノの音がしていた。内玄関の方へまわって、女中部屋の窓の外を通る伸子を見つけて、
「あら! 伸子さまがいらした」
という声がした。ガサガサと急になにか包むこわばった紙の音がして、一人が部屋の戸をぱたんとしめた。伸子はそのまま上ってピアノの音がしている客間のドアをあけた。和一郎が一人で弾いているとばかり思ってあけたら、出まどの下の長椅子に、従妹の小枝がかけて、ピアノのよこに、和一郎の友人の松浦が制服姿で立って譜をめくっている。小卓の上に紅茶茶碗や空になった菓子鉢がとりちらされたままあった。
「あら、伸ちゃん!」
 小枝が来年女学校を卒業する、すらりとした姿で立ち上った。
「しばらく!」
「やあ、来たの!」
 和一郎も制服をきていた。松浦が、もちまえの几帳面な挨拶をした。
 これは、月曜日の午後として、伸子の想像していない客間の光景であった。あけ放された出窓から、飾られている大理石の彫刻のわきまで枝をさし入れそうにしげっている楓の若葉照りをうしろにして、小枝の血色と純白のブルーズとは生気にみちて美しい。小枝が生気にみちた少女であるだけ若い人々の間には自然の雰囲気がかもされていて、ふいと、その中に入ってしまった伸子は場ちがいな姉として自分を感じた。
「冬ちゃんどうしているかしら……」
 泰造の妹に当る母が亡くなってから、小枝の姉になる冬子が母がわりとなって家の主婦役をしていた。おなじ従妹でも伸子は年の近い冬子の方によけい親しくて、佃との紛糾に耐えがたくなった頃、冬子が療養生活をしていた鎌倉の家のそばに、二間ばかりの家を見つけて貰ってしばらく暮したりしたこともあった。小枝は行儀よく、
「あいかわらず」
と答え、思いがけず伸子に会ったのをきまりわるそうに、和一郎に視線を向けた。和一郎や松浦がいつ学校へ行くのか見当のつかないような通いかたをしているのは、学校が美術学校というところもあって、普通のことのようになっていた。
 和一郎は、ごく自然なとりなしで、やがてシューベルトの歌《リード》を弾き出した。松浦が口ずさみから段々本気になって、声量はとぼしいが正確で地味なバリトーンで歌いだした。和一郎は中学を終って間もなく、そのころ一ツ橋にあった上野の音楽学校の分教場でピアノの稽古を始めた。和一郎はいい耳をもっていた。けれども、分教場の教師が必要と考えるだけ規則的な練習をしなかった。多計代がその教師に会いに行ったとき、その点が批評された。いい耳をもっているのだが、もっと規律的に練習しなければものにならないといわれたのであった。帰って来て、それをみんなに話すとき、多計代はむしろ教師を非難した。規律正しさだけで才能はのびやしない、どうせ分教場の先生をしているぐらいのピアニストだから、いうことに見識がない。――そういう風に話した。和一郎のピアノは、いつの間にかだらだら中止になって、自己流の素人芸に落着いてしまった。
 佃との生活にもまれていた伸子は、間をとばしてところどころ、その話を多計代からきいた。そして多計代とは反対な考えかたをもった。多計代は、芸術的な才能とか天稟《てんぴん》とかいうものにたいしてひどく架空な考えをもっていた。自分が日本画の稽古をはじめたときも、しばらくすると師匠が平凡すぎるといって、中絶してしまった。現実には、やっと絹に牡丹の写生が一枚描けるようになったばかりのところで。――多計代は自分や自分の生んだ子どもは一人のこらず、なにか特別な力をひそめて生れついているように思っているようだった。それをのばす方法は誰よりも自分が直観している、と思いこんでいるようだった。けれども実際には伸子にしろそういう母の判断から生じるすべての細目に力いっぱい抵抗することで、やっと現実に自分らしい生きる道も辿りつづけているのであった。
 松浦はいくつものリードをうたった。それをしばらく聴いていてから伸子はのどがかわいて茶をいれに食堂へ行った。誰もいないその室の通路に面して北側の腰高窓がみんなあいていた。それは不用心だった。そればかりでなく、掃除しっぱなしでレース・カーテンが一方へ引きよせたままになっている。いかにも、男の子だけが留守をしている家のぞんざいさであった。内側が赤塗りの大きい鮨桶がその中に笹の葉だけをのこして、皿や茶碗と一緒にまだかたづけられず真中の大テーブルの上にひろがっていた。そのテーブルのはしに送り状を紐にまきつけた三越からの届け品の細長い箱が二つ、ひょいと抛《ほう》りのせたように斜かいにのっている。
 伸子は立ったまま、この室内の光景に目をとられた。それは異様な感じだった。ただ主人たちが留守の家のがらんとした空気ばかりでない異様な感じがした。室の空虚さと、空虚にかかわらずそこに見えない力で運転している浪費の姿がまざまざと感じられて、伸子は異様な感じがした。
 この生活は誰のもので誰が動かしているのだろう。さっき、丸の内で一時間あまり一緒に過して来た父が主人なのだから、これが父の生活だというには、父とこの生活との間に距離がありすぎた。父は父ではっきり自分としての生活の輪をもっている。伸子は、くりかえし異様な感じにうたれた。この生活の雰囲気には、人と人とが互いに繋《つなが》って何かのために生きて動いているというより、人々が何かによって生かされ、動かされていて、それについて無意識でいるような奇妙な無人格性がある。その無人格性の感じは、瞬間のうちにも追ってゆくと底なしの深さに深まって感じられる空虚さであった。
 空虚感ははうずめられなければならないというように、ぼんやりした哀感が湧いて来るのを伸子は感じた。高校生の保が瞑想《メディテーション》と自分の部屋の入口に貼紙するこころもち、そのこころもちの動機は、何と微妙に、しかもどっさり、ここの家の生活の明暮れにあることだろう。伸子は、ベルを鳴らした。この間電話をかけたとき、はア、はアとばかりいっていた新しい女中が、ドアから首を出した。
「ここをかたづけてね、――それからお湯わいているかしら、お茶がほしいんだけれど」
「はア」
「保さんに、お鮨とってあるの?」
「――さあ」
「ここへ出したっきり?」
「はア」
「ともかくかたづけて――おときさんはいるんでしょう?」
「はア」
 ときは、台所専門で、もう二年ばかり佐々の家にいた。
「じゃ、そういっておいて頂戴、今晩は、こちらで御飯たべてかえりますからって……」
「はア」

 四時すぎて、保が帰って来た。
「ああ姉さんもいたの!」
 保は、和毛《にこげ》のかげの濃い上唇をうれしそうにゆるめて、こまかく詰った白い歯なみを見せながら笑った。そして、からだを半分廊下にのこしていたドアをひろくあけて、客間へ入って来た。
「この前来たとき、保さん珍しくおそかったのね、雑誌って、どうした?」
「そろそろ相談している――別にいそがないのさ」
「それがいいわ、出来たら見せて」
「ええ。是非みて貰う」
 保のために、おやつを探して来て、客間に戻った伸子は、何となしさっきまでとは違った空気がそこに出来ているのに心づいた。制服をカラーなしで着ている松浦と低い白カラーをつけている保とは、指人形の話をしていた。保は来年学校の記念祭のとき、人間の指人形で芝居を出そうと思っているらしかった。文丙に入学した第一年の記念祭のとき、どういう題だったのか、保は坊主になって、フランス語の動詞の変化をお経代りにして大好評だった。兄よりも松浦よりもよこたてに大きいからだのすこし窮屈になったズボンの膝を行儀よく椅子にかけて、保はそんな話をしている。
「ジュスイ ザーレ、テュエ ザーレってやったの?」
 つや子が宿題で動詞の変化を諳誦するとき、小さい女の子らしく甲高い声をはりあげる、その口真似をして伸子はふざけた。
「小枝ちゃんの方は? ジュスイ ザーレはやらないでいいの?」
「随意科なの」
 きちんと学校へ出た保が帰って来てからは、若い三人の話題もちがって来た。
 保は、ごくたまにしかピアノを弾かなかったし、歌は全然うたわなかった。
「外で、キャッチボールでもしたら?……もうまぶしくないわよ」
 そういう遊戯ならば保も仲間になった。伸子は小枝の方を見て、
「お気に入った樹があったら、のぼってもいいのよ」
と笑った。小枝は樹のぼりがすきで、うまいという評判なのだった。小枝は、時計をみたり、和一郎の方をそれとなく見たりしていたが、
「わたし、そろそろおいとまするわ」
と、立ちあがった。小声で和一郎に何かいっていて、和一郎も、一緒に出かける様子だった。
「僕も、そこまでゆきますから……」
 松浦が追っかけるようにして、いそいで靴をはいている背中越しに、伸子は、
「和一郎さん、おそくならないうちに帰っていらっしゃいよ」
といった。
「わたし、夕飯すぎまでしかいないから」
「ああ」
「お留守のうちだけは、ね」
「姉さん、大丈夫だよ。心配しなくても」
 必ず帰るという意味なのか、うちの方は大丈夫だというのか、どっちを心配しないでいいのかわからないようにいって三人は出て行った。すらりと背の高い、黒い絹靴下を襞《ひだ》の多い短いスカートの下から見せている小枝を真中にはさんで、制服の和一郎と松浦とが石じきを行く。その後姿が、伸子の駒沢の家の玄関へ来た三人の青年たち
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