あった。
「けさ、前崎へみんなで行っちまったんだって……」
「結構じゃありませんか、そのくらいなら」
 そして、素子は皮肉に、
「たまには、われわれも、御招待にあずかりたいもんだね」
といった。
「…………」
「ぶこちゃんはたまさかいったことがあるんだろう?」
「二三遍は行ったかしら……」
 伸子が前崎へ行ったのはまだ家が出来たばかりで、門も垣根もない時分のことであった。昔の東海道に沿った松並木の名残りが生えている崖にふみつけられた細道をのぼると草がぼうぼうしげった平地に出た。そこに、ぽつりと一軒、瀟洒《しょうしゃ》なスレート屋根の佐々の家が建っていた。両親と伸子と手つだいのものは、一列になって草ぼうぼうの間をかきわけて進み、地境のしるしにめぐらされている竹垣の木戸もない間から入った。泰造が、ポケットの鍵束の中から、親鍵を出して、入口の堅牢なドアをあけた。そのときは、水をくみあげるポンプの電力モーターの馬力が足りないで、逗留している三日間、伸子と手つだい女とが草っ原を通って下りて行って街道の漁師の家から井戸水をもらった。
 箱根の連山が見晴らせるその家のヴェランダの椅子で、多計代は、そんな役に立たないモーターをすえつけさせたことをおこりつづけた。癇癪をおこしながら、泰造は自分でモーター室へ下りて行って、調べたりした。モーター室の上は、天井のコンクリートを利用して、快適な屋根のない亭になっていた。入口のドアの外に靴の泥おとしが鋳ものの鉄製で、面白いスコッチ・テリアの形をしていた。半地下の外壁に噴水のしかけがあったりした。あっちこっちに泰造のそういう趣味がちらばっている。それは伸子を興がらした。けれども、モーターのことで居る間じゅう母がおこりつづけていることは馬鹿らしく思えた。風景の晴れやかさや別荘のいかにも快適らしい外見と、多計代の不機嫌とを見くらべると、チェホフかゴーゴリの小説に諷刺的に描かれている細君のようで、ばつがわるかった。水をもらいにバケツを下げて街道の漁師の裏へ入って行くと、そこには半分裸のような男女の子供らがはだしでついて来た。どの児の髪の毛も潮やけで赤く、ばさついている。黙ってとりかこんで、水をくんでいる「東京の邸」の女を眺め、なお街道をよこぎって崖の下の、細道の入口までついて来た。そこから奥へは入って来なかった。ものをいいかけても黙っており、笑いかけてもこたえない漁師の子たちの群とついその崖上の西洋にあるような家、そこを出たり入ったりする自分との対照は、伸子に何となしあたりまえでない感じだった。しかし泰造も多計代も、その崖の下に駅から走って来たハイヤを停めて、髪の赤い子供らに囲まれながら、ひと騒動して出入することについて、ちっともばつの悪さは感じないらしかった。伸子はそういう場合はにかみ[#「はにかみ」に傍点]からむっとしたような表情になった。多計代は、伸子のそういう感じかたをいらざることに思って、
「何が気の毒らしいことなんかあるもんですか。自分で力で建てたい家を建ててどこが悪いのさ、ばかばかしい」
 そして、つけ加えた。
「大変妙な話さ。この頃は、何でも無産ばやりだけれど雇ってくれるものがなかったら、どうして貧乏なものは働いて行くのさ。雇ってくれるものがあるからこそ食って行けるんじゃないか。それを有難いとも思わないで……」
 こういう話になると、泰造は、決して仲間に入らなかった。ヴェランダでいねむりをしている風をした。
 佃と別れて一人暮しをはじめようと決心した頃、伸子は前崎の家に住めないかと思って多計代にきいてみたことがあった。
「おや、こんどは、あの家でも御迷惑じゃないと見えるね、御方便だこと!」
 そういってからすこしの間考えていたが、多計代は、
「おことわりだね」
と、はっきりいった。
「あすこは、私たちのために建てたところだからね。ベッドだってほかにないんだし」
 そういえば、前崎の家では洗面器にしろ家族は一つところを使うようにだけ作られている。多計代にすれば、そういうこともいやなのであろう。伸子はいそいで、
「いいのよ、いいのよ、決して無理にお願いしているんじゃないんだから……」
と、自分の希望を撤回した。それは、伸子がまだ素子に会わない前のことであった。素子とくらすようになってから、数年たつ間に多計代は一度も前崎の家へ娘たちを招ばなかった。泰造が何かの折に、伸子もたまには素子さんと来てみればいいのに、といったことがあった。すると多計代が、
「ごめんですよ。何をされるかしれたもんじゃない、気味がわるい」
 即座に本気な眼つきでそういった。月日はそのまま過ぎて来ているのであった。
 伸子は、素子とつれ立って桜並木の通りから住居の方へと小道を曲りながら、
「招待されないのがかえっていいのよ」
といった。
「わたしが、御秘蔵娘だったら、あなたなんか一日だってつきあっていられないくせに……」
「それゃそうだ」
 前崎の家が、もしこんど多計代にとって激情からの難破をふせぐための一つの港となるならば、あの家にもいくらかの意味があった。多計代が反対の使い途を考えて、前崎へ行ったとは伸子に想像されなかった。
 伸子は親たちと家屋や土地との関係を段々考えて行って一種のおもしろい心持になった。泰造は、小規模に自分の趣味を示す前崎の家を建てたり、実務的に税のないうちにガソリンのいらないヨーロッパ製の小型ビインを買ったりした。けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。
 その日は、素子の母の命日というので、素子が甘いもの好きであったひとのためにおはぎをこしらえはじめた。御飯がすこし柔らかに炊けすぎて丸めにくい。家じゅう三人の女が台所の板の間でさわいでいるとき玄関へ誰か来た気配がした。とよが、手を洗って出て行ったが、眼のすわったような妙な顔つきで戻って来た。
「――こういう方が見えましたけれど……」
 水を拭かないままのうす赤い指さきで、方眼紙の小型ノートのはしをむしった紙きれを出した。太い鉛筆で乱暴に「黒色連盟 山田」と書いてある。
「…………」
 素子も伸子も知った名前でなかった。
「なんだろう」
 とよが、気味わるそうなひそひそ声で告げた。
「三人づれの方でございます――ぼうぼう髪をのばして……何だか人相のよくない方なんですけれど……」
 素子が、少しおびえた心持を、おこったような顔の上にあらわして、
「なんだい!」
といった。伸子には、いくらか思い当るところがあった。その時分、アナ・ボルということがいわれていて、黒といえばボルの赤に対してアナーキストのシムボルであることは知っていた。そういうグループの人々が、丸の内辺の会社や有名な人々のところへ、寄附金を要求してゆくことが流行していることも知っていた。近年新しく小説をかき出している若い婦人作家がアナーキスト仲間の生活を描いている作品で、そういうことをよんだ覚えがあった。
「わたし出てみる」
 伸子が玄関へ出て行ってみると、たたきのところにとよのいったとおり三人の若い男たちが突立っていた。どのひとの髪もぼうぼうとのびっぱなしで、じじむさいのをてらいの一つにしている高校生のようにきたなかった。どのひとものどのところで丸くエリの立った茶色だの黒だののルバーシカを着て、よごれ古びたズボンに下駄や靴やまちまちの足もとである。一人は太いステッキをついていて、それが先頭に立っていた。
 伸子は、
「わたし、佐々伸子ですが――御用?」
 そうきいた。
 いく日も風呂に入らないでよごれたままの顔、おそらく、朝まともに顔も洗わないで出て来たらしい三つの青年の顔が、六つの眼を紫メリンスの前かけ姿でそこに現われた伸子の上にすえた。誰一人挨拶の頭を下げず、荒っぽそうに、いかつそうに粗暴であるが、その眼のなかや口のはたにおさえきれない若者らしさや好奇心が浮んでいる。こういう若いよごれ、手荒さは伸子の知らないものではなかった。二十三歳の美術学校生徒である弟の和一郎のあるときの表情に共通な、はにかみの裏がえされた傲慢がある。伸子は、自分の側からも好奇心をうごかされながら、
「どういう御用なのかしら」
ときいた。
「――紙をわたしたんだが……」
「紙は見たけれど――あなたたちにお会いするの、はじめてでしょう」
「…………」
「あなたがた、アナーキスト?」
 ステッキをついている黒ルバーシカの青年が、
「そうだ」
と短く力を入れて答えた。
「そういう人たちで、うちへ来た方はあなたがたがはじめてです……」
 伸子は、どこかで読んだいいかたを思い出し、
「りゃく[#「りゃく」に傍点]ということに来たの?」
ときいた。金を寄附させることを、アナーキスト仲間では掠奪という意味からか、リャクというということを思いおこしたのだった。
 よごれていることを自分たちの青春の示威と飾りにしているような三人の青年たちは、何となし、伸子のその言葉で動揺した。
「用は、わかっているじゃないですか」
 ステッキをついた一人が、挑戦的に顎をもたげた。
「それゃ、読んでるもの……」
 伸子は、
「でも、わたしには何だかよくわからないわ」
 紫メリンスの前かけをかけた膝を揃えて、式台から畳じきへ上る敷居に腰かけた。
「どうして、あなたたち、いきなりよそへ来てそういう要求をするの?……」
「そんなこと、はっきりしていると思うんだ。いまの社会は、俺たちが生きられるように出来てやしないじゃないか」
 それはそうであるけれども、それなら伸子自身どういう世の中に生きて来ているのだろう。伸子は作家として暮している。女一人を生かす義務や責任をちっとも感じていない世の中を貫いて、伸子はその働きで、自分を生かして来ているのではないだろうか。
「今の日本の社会がそうだから、青年は、こうしか生きる道がないという主張をもっていらっしゃるわけなの?」
「そうなんだ」
「――わたしには、やっぱりわかるようでわからない」
 伸子は、真面目に考えこんで、じっと三人の垢だらけの若い顔々を見守った。
「私たちの一生って長いでしょう。社会の不公平だって長くつづくんだと思うわ、どうせ。そうだとすれば、その日その日、そうやって人のところからお金をとって来て暮していたって……結局、どっちの問題も解決しないじゃないのかしら。――」
 ステッキをついている青年は黙って伸子をにらんだ。すると、ズボンとはちぐはぐな上衣をシャツの上から着ている一人が、
「面倒くせえなア」
と、乱暴に髪ののびた頭を掻いてからだをゆすぶった。
「わかっているんなら、つべこべいわずに出したらいいじゃないか」
 伸子は、さっと顔に血の色をのぼせた。
「あなたがた、自分たちをゆすり[#「ゆすり」に傍点]同然に扱っていいの? 乞食が来たと思えば、黙ってお金だけやるわよ。あなたがたは、それとは、違うでしょう。少くとも主義[#「主義」に傍点]というものがある以上、それについて、まともに話すということは、敬意なのよ。ゆするなら帰って下さい、ゆすられたりおどかされたりして出さなけれゃならないような金は、一銭だってわたしのところにはないんだから……」
 ステッキを持っているのが、
「まアそう怒り給うな」
と、すこし笑うような口元になった。しばらくどっちからも口をきかず、互いを眺めあった。しみじみと眺めているうちに、このぼうぼう頭をしながらルバーシカを着るような趣味をもっている若い人々が、本当に何か一貫した主義をもってこうして生きているのだと伸子にはだんだん思えない
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