泰造の身のこなし、もののいいかたすべてに、伸子が気の毒に思う心をうけつけるような隙がなかった。後頭部にだけ髪が厚くのこっている円い頭から、カラーの雪白さ、節に毛の生えている厚い手の指にまで、事務的に明るくて、ひんやりしたものがみなぎっている。父そのものが、ニスのかすかに匂う、清潔な事務所そのものになったようでもある。
「今晩は、何時ごろ? 御飯におかえりになれるの?」
「今晩は日本倶楽部だよ」
そういいながら、ハンティングをかぶった江田がドアをあけて待っている自動車に片足をかけ、伸子が、
「いってらっしゃいまし」
というのに、一寸右手の人さし指を一本あげる外国風の挨拶をした。小さい黒いビインは、後部に朝の光をてりかえしながら、しずかに門内の狭い道を出て行った。
伸子にとって、父が出がけに、ひとこと、いつまでいるかい、ときいてくれなかったことが、物足りなかった。今更そんなことをきかないのは、出ても入っても親子であり、いたいだけいていい楽な親子の関係を示していることではあった。しかし、そこには、いつも伸子がこの家の自由さとともに感じている、何か一つのものの欠けた気分があった。
送りにでた女中たちはとっくに引っこんでしまっていた。伸子は、茶室風の玄関の間からゆっくり歩いて、腰かけの方の客間へ入って行った。掃除したまま、すべての窓が開け放されている客間の壁よりに、古風な銀の枝燭台のついたピアノがおかれている。伸子は久しぶりでその蓋をあけ、黄ばんだ鍵盤の上でいくつかの音階を鳴らした。このドイツ製のピアノは中古で、少女だった伸子のために買われたものだった。伸子に教則本を教えた婦人ピアニストはウィーンで自殺した。佃と結婚してこの家を出たときから、伸子は自分の楽器というものを一つももたずに暮していた。小さなウクレーレを持っていたが、それは佃がニューヨークで伸子のために買ったものだというわけから、伸子が離婚したとき、佃の所有品とした。伸子がそれを薬指からぬきとって、用箪笥の抽斗に入れて出て来た結婚指環とともに。
あてのない音階からだんだん伸子が思い出して、前奏曲の断片を弾いていると、食堂側のドアが、がちゃっとあいた。
「やっぱりそうだ」
それは多計代の機嫌のよくない、すこしのどのつかえたような声であった。伸子は、椅子の上でくるりとまわって母を見た。
「やかましかって?」
「――どうせおきていたんだからかまいやしないけれどね」
伸子はピアノのふたをしめ、お召の短い丹前を羽織った母の肩を押すようにして洗面所の方へ廊下を歩いた。
「顔、まだ?」
「ああ――。お父様ったら、どうしてああなんだろう」
「ああって?」
「ひとがどんな気持でいようが一向おかまいなしだからさ。――どうしてああ寝られるんだろう」
多計代は、泰造はじめ家族のものがみんなでつかっている瀬戸の白い洗面台をつかわず、自分だけ、わきの流しで別に白エナメルの洗面器をつかった。多計代は、踏台になる木の腰かけにかけ、ガスの湯わかしから洗面器へ湯のたまるのを待ちながら、
「伸ちゃんは、物質主義だからあたりまえのことだろうが、わたしにはお父様の何ぞというと、食わしてやっている、がじつにたまらない」
満足に眠らなかった一夜があけて、母の心持には、父とちがって、きのうからの続きがはっきりつながっているのであった。いつの間にか自分が、物質主義ときめられているのを伸子はおどろいた。複雑ないろいろの感情や思想をこまかく表現する習慣をもっていないで、いいあらそって苦しまぎれになると、泰造は、食わしているをもち出す。そういう父と母とを、伸子はゆうべどんなこころもちで眺めていたろう。煖炉棚の上にギリシャの壺が飾られて居り、母の指にはダイアモンドがきらめいている。それらの光景の中ではかれる、食わしてやっているという言葉は、伸子を刺した。趣味とか品位とかいうものの不確かさ、女の生活というもののむきだされた根の無力さをおそろしく感じさせられたのであった。
保もつや子も学校へゆき、和一郎は相変らず留守のひっそりとしたおそい朝食をすました。伸子は、何となし母の機嫌をつくろう気になれず、そろそろ、かえり仕度をはじめた。
「おや、もうかえるのかい?」
ひどく不意うちのような表情になって多計代がきいた。伸子はそのとき立って、煖炉前のテーブルにおいた手まわりのものを集めようとしていた。
「そんなにいそぐのかい?」
下から見上げる多計代の視線に、伸子は、袂のさきをつかまえられたような感じがした。
「何か用?」
「――用ってわけでもないけれど……」
多計代は、いまのうちにきめることがあるという風な、いくらか心の内でまごついた調子で、
「ともかく、もうすこしおいで」
といった。
「お寿司でもたべておかえりよ」
伸子は見えない手で肩をおさえられたようにまた元の座蒲団の上に坐った。
不自然に話題をとばして、多計代は、親戚のある夫人が沢田正二郎に熱中していることを批評的に話しだした。
「ああいう心持なんか、話にはわからない……」
母がいいたいのはこのことではない。そう伸子は直感した。多計代は、まつ毛をしばたたいて、左手で半ば無意識に指環をうごかしていたが、全然前おきぬきで、
「ねえ伸ちゃん、私、越智さんと結婚しようかと思っているんだけれど、お前どう考えるかい」
といった。伸子は、真暗闇の中でいやというほどなにかにからだをぶつけながら、なににぶつかったのか瞬間には判断出来ない、あの心持になった。
「――けっこん?――結婚て……」
言葉の響とその意味とが目前のお召の短い丹前をきた母とどうしても結びつかなくて、伸子は苦しい顔になった。結婚という言葉は、それは伸子にしろ知っているし、どういうことかもわかっているわけだが、しかし――。母と、越智とのけっこん[#「けっこん」に傍点]――。伸子は、
「わからない」
せつなそうに多計代を見つめて頭をふった。母は五十二であった。越智圭一は、はっきりは知らなかったが三十二三の男である。自然なものとしてその二人の結婚などということを、伸子には想像出来なかった。伸子は、おびえたような眼色になった。
「――結婚て――ここの家を出て?」
「それゃ、どうしてもそういうことになるね」
上気して、まばたきこそ繁いけれども多計代は落着いて答えた。
「伸ちゃんは、どう思うかい?」
「あんまり不意で……それゃ私たちは大きくなったんだし、お母様がどうしてもそうときめるんなら、とめられないことかもしれないけれど……でも、変だ!」
伸子は俄かに正気づいたように坐り直した。
「本気なの?」
「――結局そうしかしかたがないと思うのさ」
だんだん伸子は平静をとりもどした。そして、母のこの唐突でしかも重大な話が、抑えかねる情熱的な焔のもえたちとして出されているというよりも、むしろ何かもうすこし別な動機から出ているらしいことを感じはじめた。おぼろげに直覚されたその別の動機までさぐりつこうとするように、伸子はなおじっと多計代を見つめた。
「そうなったとき、お母様は、自分の経済力をもっていらっしゃるの?」
「どうせ、たいしたものはありゃしないけれど、わたし一人ぐらいはどうにかなる」
「だって――」
大学の助手をしている三十二三の若い男に、母のもっているこのごたごたした生活の全部の幅がどうして支えきれよう。多計代は、花弁に細い花脈の網目が浮いて見えながら最後の美しさと芳しさを放っている花のような若さをもっていた。けれども、その最後のあでやかさや匂いは、多計代にとってどんな不満があるにしろ、佐々の家の安易な日々を条件として保たれているものであった。かりに越智が本心から母にたいして何かの魅力を感じているにしろ、それは全く、この家の夫人としての多計代の身にこそついているものであった。大学助手の越智の格子戸のはまったささやかな家、その上金銭に関して鷹揚とも思えない風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》の越智。それらと結び合わされた母の姿を思い描くと、そこに女としての生活の発展などということは、みじんも考えられなかった。伸子の目の前には急に激しい疲労と老いに襲われた哀れな母の姿しか浮ばなかった。――結婚――伸子はいよいよおどろきを眼にたたえて、テーブルの上に組合わされている多計代の、ほそくて白くすべすべした手を見た。
「……それ、どっちからの話? あっちから?」
「はっきりそうともいえないんだけれどね……」
「じゃ、お母様から? もうおっしゃったの?」
「だから、伸ちゃんはどう思うかって、きいているんじゃないか」
「――こっちから、なんて……」
伸子は、
「変だわ、変だわ」
不安が募って、そういいながら白くて柔らかい多計代の手をつかんだ。
「まるで変じゃないの? どうして? ね、なぜなの? 問題にもならないみたいなことなのに……」
「この間研究室へ行った時にね、あのひとも若いもんだから――」
ついそういいかけて多計代は周章《しゅうしょう》した。大学にある越智の研究室へ行くことを、多計代はこれまで保からもかくしていたのだった。伸子からはもとより。――そういういきさつに拘泥せず、
「そしたら?」
手を握ったまま多計代を促した。
どう表現していいかわからない、けれども、この話全体の核心になる事情がそのときのことに潜んでいるらしかった。
「……ともかく私としちゃ、もう結婚をするしかないのかと思うようになったのさ」
多計代の眼に涙が浮んだ。涙の浮んでいるその母の眼に、まばたきもしない自分の視線をぴったりと合わせ、想像されるあらゆる場合を考えめぐらしているうちに、混沌としていた伸子の想像のうちにいくらか現実性のある一つの点が照らし出されて来た。多計代は、ちらりと、あのひとも若いもんだから、ともらした。それは暗示の多い一言であった。越智は母に、男が女に求める肉体的な求めを、何かの形で出したのではなかろうか。いつか、越智が、もし現在の細君をもっていなかったら、多計代に求婚しただろうといったことを、多計代は伸子に告げたことがあった。いくらかずつ伸子にもわかりかけて来た。
「ね、お母様、越智さんは、お母様になにか特別なことを求めたの?」
「…………」
多計代は肯定も否定もしなかった。ただ、まぶたいっぱいになってきた涙が、頬にこぼれかかった。若くない、けれども繊細ななめし革のような不思議な艶のある滑らかな頬に涙の粒を光らせながら、指環のはまった手をとられたまま、娘の目のなかをじっと見つめている多計代の顔じゅうに、のっぴきならない苦悩があった。その苦悩は伸子の若い顔にもてりかえした。越智が何かを多計代に求めたことは事実であり、それに対して多計代がすぐには応じられなかった心持があることを、女としての伸子は理解したのであった。
伸子の心に涙がにじんだ。越智にひきつけられている母を、伸子はつよい反感をもって見て来た。その伸子の反感を、越智はうがったように娘が母にたいしてもつ嫉妬だという風に分析したりして話しているだろう。娘の感情は、嫉妬というよりもすこしちがった動きかたもあるのに。――多計代がゆとりのあるその身辺におこす波瀾の筋立てが余り月並で、伸子は主としてそこに反感をそそられて来た。いま、多計代のせっぱつまった顔をみると、伸子はその反感をうしなった。少くとも多計代の感情には、嘘をつくことの習慣がない。この発見は伸子の心を同情ふかくした。
「おかあさま……」
伸子はやさしく、母の匂いのいい手の甲に自分の頬を近づけた。
「いってくだすってよかった」
頬をすりよせている伸子の心に、思い出されることがあった。昔、伸子が少女だったとき、多計代が教えたことがあった。男と、唇と唇との接吻をすると、それはもう結婚すると約束をしたも同然のことである、と。漠然と結婚は一生の一大事とだけ知っている少女の伸子の感情に、結婚の約束をしたことになるのだという多計代の真面目な重々しい言葉は決定的に威嚇的に刻みつけられた。もしか
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