快さや、こういう腹立ちの爆発のしかたに同情がもてた。みっともないと思えなかった。理づめな物言いの出来ない父、そして、面と向った対人関係では気のよわい父には、せっぱつまるとこういう爆発をするしかない気質がある。伸子にそれがよくわかった。
 伸子は、そっと立って、洗面所へ行った。ハンカチーフで涙を拭いたあとの顔を、そこの壁につけてある鏡にうつした。人の心のなごまるようにと、この家の門の石じきには花の形がちりばめてあるのに。――
 流しの前に、木の椅子がおいてある。ひっくりかえすと踏台になる椅子だった。伸子が小さかった時から、その椅子はそこにある。伸子はニスのはげかかっているその上にかけた。こういう風にして、母がかけていて、そのわきに娘の伸子が立っていたことがよくあった。夜中に母が何か父と衝突して、涙をこぼしながら下りて来てここにかけていたとき。また、もっと小さかった伸子が、錦輝館の泰西大名画という映画につれて行って貰おうとして、ともかく身じまいをはじめて母の気がきまるのを、辛抱しながらこの椅子にかけている母の横に立って待っていたとき。いま伸子は、ふと一つのことを想い出した。
 何年か前、知人の細君で日野さよ子というアメリカ帰りの女が、佐々の家へ出入りしたことがあった。どういうわけだったか良人は日本にのこっていて、細君だけがアメリカへ行き料理の勉強をして帰って来た。小柄な、いくらか蓮葉で愛嬌のいいそのひとが、動坂のうちへも来て料理を教えてくれるということになった。もうその時伸子は佃と結婚していて、赤坂の方に住んでいた。あるとき、来てみると、母がしきりに父をからかって、
「ほんとに、どうなすったのかと思ったよ。お父様ったら、今出たばかりのお風呂に、また飛びこみなさるんだもの」
 伸子にそういった。
「そんなことはないっていってるじゃないか」
「いいえ、おかくしになったって駄目ですよ」
 日野さよ子が来たと聞いたら、泰造が、そうか、というなり、さっき帰ったときにもう入浴をすました風呂へまたとび込んだ、というのであった。伸子は、半信半疑で、変な話だと思ってきいた。母が、はしゃぐようにしてくりかえしていうほどおかしくもなかった。
 伸子はそのときのことを、母の不自然なほど陽気だった笑い声までつれて思い出した。そして、父はいま越智に対して、どなりつけた。――夫婦の生活というもの、男と女との生活というものが、父母という関係から引きはなれて伸子にかえりみられた。しっかりつかまえてそれを解決してしまうにしては、頭も尻尾もない奇妙なもやもや。生活の中から湧き出る感情の明暗は、伸子が佃と生活した数年間にも充満して、ついにその生活をふきとばしてしまった。それが、もう三十年も生活して来ている親たち夫婦の間にもある。夫婦のなかにあるばかりでなく、伸子と素子との生活感情にも、形をかえてしのび入って来ている。十六歳の伸子は真剣に、こんなに喧嘩をする父と母とが、次々に赤坊を生んで、その赤坊は自分が守りしなければならないという事実について、どうしても納得できなかった。大人たちの生活に軽蔑を感じた。十六歳の心は失われている。けれども、伸子は、午後出席した茶話会での早川閑次郎の話しぶりにしろ、ふれる生活のあらゆる面に、さっぱりとした人間の結合や接触の自然さがないことを息づまるように感じた。再び伸子は門の細道のしき石にちりばめられている花びらの形を思い出した。それから、|東、西、我家ほどよきところなし《イースト・ウエスト・ホームス・ベスト》と焼きつけられている真珠色の|焼つけ硝子《ステインド・グラス》の窓を思った。その硝子は、食堂で父がどなった背後の煖炉わきの高い小窓にはめこまれているのであった。
 スリッパで廊下を来る足音がした。きぬずれの音がした。伸子は、椅子から立ち、水道の栓をひねって、手を洗いだした。そこへ多計代が入って来た。
「おや、いたの」
 多計代は伸子の肩の一端が映っている鏡に向って一寸自分を眺め、やがてセルロイドの盆から櫛をとりあげて、格別みだれていないいつもの大きくふっさりした庇髪をかきつけた。
「お父様はあれだから困ってしまう、すぐ真っ暗になって……」
 越智は帰ったことが、多計代の話す調子でそれと察しられた。
「あの有様じゃ、何ごとかと思うじゃないか」
「…………」
 伸子は黙っていた。多計代も、伸子がさっき涙をふきにここへ来たように、きもちをしずめるために洗面所に入って来たにちがいなかった。
 鏡に向って上目で前髪の毛すじをととのえながら、多計代はいくらか弁解のように、
「お父様ったら、愚弄したとか何とかって――おっしゃることがどうしていつもああ極端なんだろう。――こないだ越智さんが一緒に夕飯をたべて、あとでいろんな話が出たんだけれど、何しろお父様は、本をよまない方だしね、越智さんはああいう真面目な人だし、すっかり話がちぐはぐになっちまって、お父様はさんざんだったのさ、それだけのことだのに……」
「またシュタイン夫人のことでもいったんじゃないの?」
「…………」
 ほんのにくまれぐちと自分で知っていったことに、多計代は答えない。伸子は愕然とした気持で、母の顔を見た。多計代は白くふっくりとしたきれいな顎をひきつけて、衿もとにかかった白粉を軽く指さきではらっている。越智に対してつかみかかるような激しい言葉がほとばしりかけたのを、伸子はやっと自制した。伸子はそこに、はっきりと、父と母とそして自分にも加えられた屈辱を感じたのであった。父親似の丸い伸子の顔に悲しみが現われた。黙って立っている伸子に、多計代は、
「食堂へ行くんだろう?」
ときいた。
「ええ」
 多計代は、どうやら伸子と一緒の方が工合よい風で、つれ立って食堂へ行った。
 珍しく保が、友人と回覧雑誌を出す計画のうちあわせで夕飯にかえらなかった。父の好物な豆腐のあんかけが出来ていた。それは伸子の好物でもあり、多計代はおくれてかえる保のために、
「保様がお帰りになったら、よくあつくしてあげてね」
とお給仕に念をおした。
 幼いつや子が食堂から去ると、泰造、多計代、伸子の間に、さっきからつづいた気分がかえって来た。伸子は大テーブルの上のすこし離れた場所で夕刊をひろげていた。泰造は、煖炉わきのつくりつけの長椅子に、クッションを枕にして横になっている。多計代はいつもの、入口から正面の席で、薄い藤紫の地にすがぬいのある半襟のよくうつる顔をまっすぐに、いくらか胸をはるように坐っている。坐っている爪先が白い生きもののように落着きなく動いていることは、多計代の繁いまばたきの工合でしれた。
 しばらくそうしていて、やがて多計代がその沈黙にたえられなくなったように、
「お父様」
 さ、ま、というところに力を入れて泰造を呼んだ。
「なんだ」
「寺島の地所のこと、してくださいましたか?」
「まだだ」
「――困るじゃありませんか」
 伸子は、自分に向けられた母の視線を感じた。が夕刊から目を動かさなかった。両親の心持のもつれが、こういうところに話題をとらえて、しかも母の方から挑むようにもち出されたことは、伸子に思いがけなかった。
「あしたですよ、期限が」
 寺島に、母の実家があった。祖母の死後、すっかり没落した多計代の実家は、銀行から宅地を差押えられかけていた。多計代は、明治初期の学者として著名だった父親の記念のために、その土地は人手にわたさず、佐々で買いとりたいと計画しているのであった。
「あなたったら、建築家のくせに、ちっとも事務的にてきぱきして下さらない――よく、それで事務所の用がすんでいらっしゃる」
「そんなにいそぐなら自分でやったらいいじゃないか」
 多計代は、
「あなたは、寺島のこととなると、実に冷淡だ」
 涙をうかべて、ふっくりと白粉のついている顎のところに泣くまえの梅ぼしをこしらえた。
「わたしに出来ることなら、はじめっからお願いなんか、しやしないじゃありませんか」
 長椅子にあおむけに横になっている泰造は、あおむけのまま脚を高くくみあわせた。そして、
「俺は、寺島のことについては、お前のこころもちのすむように、なんでもいうとおりにして来てやっている筈だ」
 伸子のところから父の顔は見えなかった。けれども泰造が煖炉前の天井についている灯を見つめながら、複雑な心もちでしんみりとそれをいっている様子はまざまざとわかった。
「世間の亭主はどんなもんか、少しはくらべて見るがいいんだ」
「恩にきせるなんて――卑怯ですよ」
「俺が卑怯かどうか、伸子にきいてみろ」
「ほら、とうとうあなたの、伸子にきいてみろ、が出た!」
 多計代は涙をうかべながら、かちほこった、刺すような笑いかたをした。
「ひとがいるといつだってそうなんだ、あなたってかたは。――虚勢をはって――」
「いいかげんにしろ!」
 ねていた泰造が長椅子の上でおき上った。
「自分の娘をひと[#「ひと」に傍点]っていう奴がどこにあるものか。――いったいなにが不平でそう悪態をつきたいんだ。何不自由なく食わせてやっているくせに。――したいだけの我ままだってしているじゃないか」
 多計代の頬を涙が光ってころがり落ちた。
「何不自由なく食べているのが、そんなにお気にいらないんなら、私はどうでもしましょう。……さぞあなた一人で、ここまでになすった家なんでしょうから」
 袂からふところ紙を出して、多計代は涙をおさえた。少しふるえるその手の中指に見事なダイアモンドの指環がきらめき、煖炉棚の上におかれた振子時計が、ガラス・ケースの中で一本の金線につられた金色の振子を音なくまわし、部屋にひろがった静寂の深さと時のうつりを計っている。伸子はその座にいたたまれない思いになった。激情的な多計代は、いつも対手が一番ひどいことをいわずにいられなくなるまで、感情を刺激し、駆りたてた。伸子も始終それにまきこまれて来た。しかし、今夜、伸子はその渦に巻きこまれず、不思議に悲しい鮮やかさで、この家庭の全情景を心に映しとった。

        十二

 翌朝、身じまいをおわって伸子が畳廊下へ出てゆくと、襖があいていて、泰造が一人洋服箪笥の前で、身仕度をしていた。
「お早うございます、もうお仕度?」
「ああ。よくねましたか」
 泰造は、きちんと剃った顔をあおむけ、洋服箪笥の戸の裏についている鏡を見ながらネクタイを結んでいた。ホワイト・シャツの背中が鼠色フェルトのズボンつりの交叉の間に清潔にふくらんで、あおむきにのばしたのどの皮膚が、カラーのあわせめから顎へかけて年配らしくたるんでいる。伸子が一緒に暮さないようになってから、もう何年か、泰造は毎朝一人で、箪笥の前で身仕度をととのえて事務所へ行くのがならわしになった。多計代は、良人や学校へゆく息子の朝食の時間におきて来ないことが多かったし、出勤の身じたくも、帰宅して来たときの着がえも、伸子が覚えてから滅多に手つだわないひとであった。泰造は年来、朝はこうして一人で仕度して出かけ、帰って来て冬ならばストーヴの前においてある和服に、今ごろなら衣紋竹につるしてある和服に一人でさっさときかえた。お嫁に来たとき、あんまりおばあさまの焼餅がひどくて、お躾《しつ》けがよすぎたもんだからね。多計代は自分たち夫妻の習慣を、そういって笑った。
 けれども、年とった夫婦である父と母とがあらそいをした今朝、父がやっぱり一人箪笥の前で身仕度をしているのは、いつもの通りでありすぎて伸子には気の毒に感じられた。伸子は箪笥の中についている小抽斗からハンカチーフを出して、上着のポケットに入れたりした。
「お父様、よくおやすみになった?」
「ねたとも、例によってたちまちですよ」
 父の顔色は、ほんとに、昨夜もいつもどおり枕へ頭を置くやいなや、すぐいびきになったと告げている。顔色ばかりか、手帳と紙入れとを内ポケットへ入れる手つき、箪笥をしめてまた食堂へ戻ってゆく足どり、それらのどこにも、昨夜のもつれた気分の跡はなかった。もう今日一日の活動の一歩がふみ出されていて、その流れのうちにある
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