じめた。その新聞記事を、伸子は目をみはってよんだ。北伐軍が南京で日本の陸戦隊と衝突し、漢口でも同じようなことがおこった。間もなく蒋介石の弾圧がはじまって、上海、広東その他で革命的な指導者や大衆が多量的に虐殺された。虐殺された民衆のなかには革命的な女学生もあることを、伸子はやはり新聞でよんで知っていた。官費で勉強している師範学校の女学生たちであるきょうの中国女学生たちは、そういう激しい中国の動きにどういう関心をもっているかはわからない。けれども激動する中国の空気はこれらの若い女学生の精神を敏感にしていることだけはたしかだった。彼女たちが、孔子の話に腹立つ感情は伸子にも実感されるのだった。
散会となったとき、中国女学生たちのほとんど一人も早川閑次郎の方はかえりみず、互にしゃべりながら椅子から立ちあがり、街路を見下すその室の窓際へそのまま自分たちでかたまった。
十一
なぐさまない心持で、伸子はその新聞社の正面石段を一人で下りて来た。プラタナスの並木路をすこし歩いて、上野ゆきの電車にのった。市中へ出たついでに、動坂へよって泊ろうと思うのであった。
伸子のかけた座席はあいにく西日に向った側だった。ぎらついた光線は、電車の走ってゆく大通りの高いビルディングの前にさしかかった時だけはさえぎられ、またたちまち町並のすき間から、低い瓦の屋根屋根の上から、伸子の顔の真正面にきつくてりつけた。落ちつかない気持で顔をそむけながらのってゆくうちに、伸子は何年もの昔、まだ十六七だった自分が、やっぱりこういう焦立たしい西日を顔にうけながら、牛込のある町を女中と一緒に歩いていたときのことを思い出した。
それはまだあかるい夏の夕方であった。酒屋の店さきなどに打ち水がされている牛込のせまい通りを、白地に秋草の染めだされた真岡の単衣《ひとえ》を着て、板じめちりめんの赤い帯をしめ、白足袋をはいた伸子が歩いていた。伸子の父の年下の友人で、稲田信一という建築家があった。その人は、江戸ッ子ということを誇りにしていた。角ばって苦みばしり、眼のきつい顔に、いくらかそっ歯で、せまい額の上に髪を粋な角刈めいた形にしている人であった。牛込に住んでいた。そこへ使いにやらされた。
母が大きく結んでくれた赤い帯に、こわばった真岡木綿の単衣、うしろにすこしはね[#「はね」に傍点]のあがった白足袋という自分の身なりに、伸子は本能的な気に入らなさ、野暮くささを感じながら、その感じで神経質になりながら、行儀よく、若い娘のぎごちなさで、稲田の客室に通された。切下げの老母が出ての、そつのない応待に、伸子は、いいえとか、そうでございます、とか短く答えた。
泰造への返事の手紙を書き終ると、稲田は伸子に珍しい写真画集を見せた。世界名画の中から、婦人画家の作品ばかりを集めたものであった。伸子はよろこんで、
「あら、ロザ・ボンヌール!」
「馬市」を見出して顔をかがやかした。父のもっている色刷りの名画集で、伸子は「馬市」を見て覚えていたのであった。その本には、ボンヌールのほかにマリ・バシキルツェフとかイギリスの婦人肖像画家とか伸子の知らないたくさんの婦人画家の傑作が集められていた。
「面白いですか」
「面白いわ、こんなに大勢女のひとの絵かきがいたのね」
稲田はぴたっとした坐りかたで、煙草をふかしながら、一枚一枚と頁をくっている伸子を眺めていた。やがて、
「伸子さん、その本あげましょうか」
といった。
「ほんと?」
「あげますよ。僕にはどうせいらないもんだから……。たかが女の絵かきなんて、どうせたいしたことはないんだからハハハハ」
伸子は、涙ぐむほど、傷つけられた。熱心に見ていたよろこびが嘲弄されたように感じられ、ぎごちない娘である自分がそれをよろこんでいることが恥しめられたように感じた。そんなに思っている本なんか、ちっとも貰いたくない。むきにそう思った。けれども、そのままを言葉に出してことわることも出来なくて、その分厚い本を女中にもってもらって帰って来た。そして、もう二度と稲田のとこへなんか行かないと心にきめた。この建築家は後に、有名な赤坂の芸者であったひとを細君にした。
今になって大人の女となった伸子として思えば、それは、稲田の毒舌と知人の間になりひびいていたその人のいいそうなことであったし、稲田の都会人らしいてらいや弱気のあらわれとも考えられた。しかし、一人前の男が、十六七の小娘にどうしてそんな態度をとらなければならなかっただろう。自由主義の評論家として大家の扱いをうけている早川閑次郎が、きょうの茶話会で中国女学生たちに話した話しぶりも思いあわされた。
稲田信一や早川閑次郎の女に対しての毒舌と辛辣さは、結局裏がえされたフェミニズムの一種だということは、ちかごろは伸子にも理解される。けれども、男のそういう態度《ポーズ》はやっぱり伸子に若い女としての反撥をおこさせた。その人々のフェミニズムが裏がえしになっていることには、社会的に個人的にいろいろいりくんだわけがあるはずだった。丁度素子が男みたい[#「男みたい」に傍点]になったことには親たちの結婚生活のかくれた悲劇が裏づけになっているように。そういう点につっこんでゆけば、機智や毒舌で片づかないものがあり、そしてそれこそ人間らしいあれこれであるのに、それを掘りかえす勇気はなくて、相対的に――女に向って、優越めいた逆説をたのしんでいる種類の男を、伸子はいやだった。彼らの毒舌や逆説で、くやしがる若い女の声や態度は、彼らをたのしませるのだ。そうわかっていても、やっぱりくやしいことはくやしいし腹が立つことは腹がたつ。――
上野の五重の塔のいただきが森の上に見はらせる坂をゆっくりのぼって、伸子は同じ歩調でしずかな道をいそがず歩き、動坂の家の門をはいった。伸子は何となし視線をおとして門から玄関までの細くて奥のふかい石じき道を歩いていて、おや、と意外なものを見つけたように足をとめた。門を入って数歩のその足もとに大きい花の形にきられた石が、はめこまれていたのにはじめて目がとまった。五つの花弁の先はまるくコスモスの花に似た模様に石がはめこまれている。伸子は、その発見を非常にびっくりした。というのは、この石じき道ができたのは、もう数年前のことであり、伸子はそれから幾百度ここを通ったかしれないのに。――足もともそぞろに、せわしくこの家を出入りしていた自分の生活の姿が、まざまざと映しだされて、伸子は悲しく、すまなかったと思った。伸子はしばらくそこにたたずんで足もとの花をながめていた。石ではめこまれた花は石らしく素朴で、同時に、石をそういう花の形にはめているというところに人の心のおもしろさがある。伸子は、しばらく眺めていてから、いままで目にも入れずに暮して来たことをあやまる心持で、特別にそっとその花の形の石じきの上を草履でふんで奥へ歩いて行った。
車庫の扉があいて車がはいっている。玄関にはもう灯がついている。伸子は、小走りになって重いガラス戸をあけた。これらは、みんないい前兆である。父の泰造がもう帰って来ているというしるしである。玄関の靴ぬぎ石の上に一足靴が揃えられてあった。お客様かしら、そう思いながら、どんどん入って食堂の入口へ行った。ドアはあいていて、出窓の白いレースが涼しく見えている。案の定、泰造が、セルのふだん着の腰にゆるく兵児帯をまきつけた形で煖炉を背にしたテーブルのきまりのところに坐り、巻紙を片手にもって、手紙をかいていた。伸子は、
「お父様!」
からだじゅうでよろこびをあらわしながら、廊下のところで、わざとトンと白足袋の足を鳴らした。泰造は六分どおり白い髭のある丸顔を、びっくりしたようにふり向けた。
「おや、よく来ましたね。さあこっちへおいで」
伸子は、父の坐っている座蒲団のはしに膝をつけるようにして坐った。
「どうなすった? お父様。この間、お誕生日にわざわざ花をもって来たのに――。黙って出張なんかなさるんだもの」
この間といっても、あのときからきょうまでには、もう二十日ばかり経っていた。
「うむ、あのときはね、急だったんでね」
「お帰りになったとき、まだバラがあった?」
泰造は、水牛の角でこしらえたトカゲの形の紙切りで巻紙をきりながら、
「あったようだよ」
そういうものの、はっきりとは思い出せないで、多忙な人らしいうっかりした調子で答えた。花から、伸子は、今ふんで来た石の花形を思い出した。
「門の石じきの模様ね、あれ、お父様がデザインなすったの」
「そうだよ」
「花の形を、あすこへ入れることも?」
「――いいだろう? 気に入りましたか?」
柿模様の火鉢のよこに、ついの小|抽斗《ひきだし》がついている。手をのばしてそこから封筒を出しながら、泰造がいった。
「門を入ると、花がある――わるくないだろう?」
門を入って来る幾人のひとが、花をそこに散らしたこころをくむだろう。伸子は、自分までが今になってそれに気がついたとは、いいかねた。
「きょう、どうかなすったの? 珍しくお早いのね」
「ああ、腹をこわしてね、よるはことわって帰って来てしまったのさ」
「よかったわ」
心から伸子はそういった。泰造が晩飯にいあわすことは月に数えるしかなく、そのときに伸子が来合わすことはさらに稀なことであった。
「お母様は?――お出かけ?」
「客だ」
ぶっきら棒にいって、泰造は手紙を出させるためにベルをおした。
六月の夕暮のうす明りが、出窓のレース越しに、植込みの青葉に残っている。落着いた深紅色の地に唐草模様のついた壁紙がはられた室内には灯がついていて、食器棚の深彫りを浮き立たせ、同時にこの食堂の意味のわからない独特な特徴である雑多な罐や箱のつみかさねを、隅の方で目立たせている。
急に廊下ごしの客室のドアがあいて多計代が出て来た。
「こんにちは」
という伸子に、
「おや」
目を向けたきりで多計代は、
「あなた」
坐っている泰造のむかい側にまわった。
「ちょっとお会いんなって下さい。さっきから申上げているのに」
泰造は返辞をしないで、新しい来信の封を鋏で切っている。その泰造の鼻の穴はふくらんでみえる。伸子は父が癇癪をおこしたことを知った。
「何でもないことじゃありませんか、ちょっと顔を出して下さるぐらい――保だって世話になっているのに……」
伸子は、眼をそらした。白いレースの夜の窓がそこにある。苦しく心がひきしぼられた。また越智が来ているのだ。――
挽茶《ひきちゃ》のような淡い緑の絽《ろ》ちりめんの単衣羽織をきた多計代は立ったまま、いらだつように、
「いつもあなたは御自分のつきあいはあんなに大事になさるくせに――紳士《ジェントルマン》というのは、そういうもんじゃないでしょう」
泰造の顔に、さっと血のけがのぼった。鋏を乱暴にテーブルの上へおきながら、
「俺はジェントルマンでなくていいんだ」
めったにない激しい調子でいった。
「俺は会わない。会うもんか。あんな家庭の侵入者に、俺が会う必要なんか絶対にない」
多計代の顔の上に困惑が現われた。
「そんな乱暴なことおっしゃって、私が困るばっかりじゃありませんか。せっかくお目にかかって御挨拶したいっていっていなさるのに」
「何の挨拶だ! この間のざま[#「ざま」に傍点]は何だ。人を愚弄して。ああいうつきあい法というものはありませんよ。会わなくて気に入らないなら幸だ。さっさと、今、すぐ、帰って貰おう」
威圧されたように多計代は黙った。やがて、ゆっくり歩いて客室のところに行ってハンドルに手をかけ、うす緑の羽織姿を半ば消しかけたとき、泰造が大きな声を出してこちらの食堂からどなった。
「今後も決して会わん。すぐ帰って貰おう!」
泰造はそばに動かずにいる伸子の方をみず、血の色ののぼった髭の白い顔をがんこに書類にむけている。その横顔が伸子の目の前にあった。その父の耳のなかの小さくとがったところに黒い毛がもしゃもしゃ生えている。伸子は、涙が浮んだ。日頃つづいていたにちがいない父の不
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