、浅黒く、いかにも師範の女学生らしい簡素さである。動かない彼女たちの姿勢と表情のうちで、きつい黒い瞳ばかりがいちように好奇心をあらわして、伸子たち少数の日本婦人の上に注がれている。その席には、日本流の窮屈さがあり、またその上に古い中国の長幼の序とでもいう風な礼儀の窮屈さも加っているようであった。長テーブルの中央にはひとはちの盛花があって桃色のヒヤシンスが匂っていた。
 なんとなし手もちぶさたな時がすぎて、やがて日本側の主賓であるある評論家が入って来た。縞のズボンに黒い上衣をつけ、背の高いからだに、伸子が写真で見なれた顎のはった顔と、ぴったり真中からわけられた灰色っぽい髪がある。
「やあ、どうもおそくなりまして……よそからまわって来たもんですから……」
「いえ、どうぞこちらへ」
 その評論家は、長テーブルの上座にあけておかれた席にかけた。
 司会者であるその新聞の婦人欄の記者が立って、挨拶をした。新しい中国の教育のために活動しようとしている女性たちの希望ある前途を祝福する意味での小さい集りとして、話した。それを、黒背広をきた小柄な引率者の一人が中国の言葉にうつして女学生につたえた。女学生たちは、うなずくように濃い黒いおかっぱを動かし、幾分椅子の上でのり出した。
「では、これから早川先生の御話を願いたいと思います」
 記者は、上座に向ってちょっとお辞儀をした。早川閑次郎が起立した。そして、服のポケットに右手のさきを浅く入れ、講演になれた態度で、微笑をふくみながら話し出した。伸子も、おとなしく耳かくしとよばれる髪に結っている頭をそちらに向けた。猫好きで有名な独身生活者で、綜合雑誌へ皮肉と進歩性のまじった論文、雑文をかくこの評論家は、どういう思想のおくりものを、これらの中国女学生たちに与えようとしているのだろう。そのころ中国の社会は、日本よりも急激に変化していて、女性の政治的なめざめも注目されていた。そういう空気の中から来ている中国の若い女性へのおくりものは、同じ時代に生きる女であるということから伸子たち居合わせる日本の婦人たちにとってもおくりものとなるわけだった。
「あなたがたのお国には、孔子という哲学者がいました。そして、儒教という非常に優秀な道徳を鼓吹して、日本も何百年という間、そのおかげをこうむって来ています」
 通訳をしなければならない黒背広の小柄な人は、せっせと筆記している。伸子は、早川閑次郎らしい逆説的な冒頭だと思った。
「この優秀な孔子の道徳は、女子の生活方向というものをきわめて明瞭に示して来ています。非常に具体的に親切に教えている。男女七歳にして席を同じゅうすべからず、とか、女子と小人は養いがたしとか、そのほかまあ、いろいろ有益なことを教えています」
 筆記している小柄の人は、少しけげんそうな表情でちらっと目をあげて、早川閑次郎の方を見た。腕ぐみをして、うなだれていた司会者も、顔をもたげて、話し手に注目しはじめた。
「ところが、近頃、中国の若い人々、とくに若い婦人は、この結構な孔子の道徳に対して反抗しておられるようです。盛んに男女同権を主張しておられます。ですが、どうも私の考えるところでは、反対する方が間違っているし、結局のところ女の不幸になると思うんです。女子と小人――つまり、女や、まあ一般に余りもののよくわからない人間は、皆しっかりした男にたよって安全に生かして貰ってゆくべし、それでいいというのは、女にとって実に幸福なことじゃありませんか。日本へ来てみられておわかりでしょうが、日本は今失業が多くて男は皆へこたれています。しかし、男に養って貰う女は、何とかして男がやしなってくれるから、そんな男のような苦労をする必要がない。男尊女卑ということは、女の楽園、パラダイスだと思うんです。皆さんも、折角教育をうけ、教育者として活動しようとしておられるんですから、このところをよく考えて、下らない新しがりはおやめになるのが賢明であると思います」
 ほとんどあっけなく早川閑次郎の話は終った。日本語のわかるものの顔には、彼の話の真意をなんと解していいのかわからない、ばかにされたような期待はずれの感情がみなぎった。
 伸子はあきたりない思いをもってきいているうちに、だんだん不愉快になった。猫が、犬のように飼主にこびず、ある意味での親愛感や共感なしに、冷然と飼われているそのエゴイズムが面白い、と書いているこの評論家は、この話で、皮肉な逆説として、男を食う女になって、男尊女卑を現実で裏がえしにしてやれ、といおうとしているらしく思えた。けれども、彼のひとひねりしたそういう話しぶりは、一般のききてに通用しないものだし、まして彼の論法はひたむきな向上心と観察欲にもえてここへも出席して来ている中国の女学生たちのこころにふれるものではない。伸子は、この評論家が、何につけても、これまで在るものをただそのまま裏がえしにしてしゃべるしか能のないことをおどろいて、気持わるく発見した。女が、自分の人生の道をもちたいと願っている心、中国の女学生が国の独立のために役だとうと決心している心は、こんな風なよそよそしい、有名人の持芸で、何ものを加えられるというのだろう。伸子は、年長者としての親切のない態度へのおどろきと自分の機智に満足している有名さへの軽蔑で、本来は素朴で好意的であるべき会に主賓となっている評論家を見つめた。
 黒服の小柄の人が立って、ノートを見ながら早川閑次郎の話を丁寧に通訳した。伸子がきいていると、通訳者の丁寧な通訳ぶりそのものに、ひそめられているある感情がうけとれた。通訳の半ばから、女学生たちの群の上にはっきり動揺があらわれた。一人の茶っぽい服を着た女学生が自分の席から、
「シェンション」
と呼んで手をあげた。通訳の人は、ノートを見ながら抑揚のつよい中国語で話しつづけ、左手の掌《てのひら》でその女学生の発言を柔らかくおさえるようにしながら、しまいまで通訳した。
「シェンション!」
「シェンション!」
「シェンション!」
 その声々は、伸子の動悸をたかめる響きを持っていた。中国の女学生たちのせきこんだ感情が実感された。おっしゃい! どんどんおっしゃい! 伸子は、眼をきらめかせて、手をあげている中国女学生たちを見た。
「はい」
 茶色っぽい服をきた、ほっそりした体つきの女学生が指された。通訳の終るのをまちきれずに「シェンション」と鋭く呼んだ女学生であった。席から立つと、その女学生は、おかっぱを頬からふりさばこうとするようにきつく頭をひとふりして、
「早川先生!」
と、ハヤカワという姓だけ日本語で呼びかけた。そしてぴったり自分のからだを、講師の方へ向けた。そして、激怒した口調の中国語で、たたみかけ、たたみかけして話した。二度ほど間に「早川シェンション」とよびかけながら。
 黒服の小柄の人が、その内容を日本語にしてつたえた。が、その通訳は、じかに耳できき、その若い声の抑揚から激情が感じられた話の調子にしては、ひどく内容が簡単につたえられたようだった。私たち中国の若い教育者は、真に故国を文明国とし、人民を幸福にしたいと希望している。早川先生の孔子に対する見解は、私たち中国の若いものが孔子を見ている見かたと正反対であります。孔子と儒教は、中国の女を不幸にし、若いものを老人の圧迫の下においている。恐らく日本でもそうでしょう。先生の御意見には反対です。そういう意味がつたえられた。そういう言葉は伸子に同感されるものだった。
「シェンション!」
という呼び声が、いろいろの若い女の声でほとばしるようにおこったときから、早川閑次郎は顎骨の張った面長な顔に、優越的な微笑をただよわせながらみんなを眺めていた。女学生の反駁をつたえられると、その表情は一層濃くなって、その顔つきはほとんど面白がっているようになった。早川閑次郎は、ふたたびゆっくり立ち上って話しはじめた。
「あなたがたが、お国の人の幸福のために熱心に努力なさるのは何よりです。私は十分皆さんの誠意に敬意を払います。しかし、文明といい、人智の啓発ということは、ものごとを複雑に理解する能力です。私は、あなたがたが、誠意の上に加えて、諷刺を理解する力をもたれることを希望します」
 それは、また小柄な黒服の人によって通訳された。論争の中心点をそらした返答をうけて、女学生たちはしばらく沈黙した。やがて灰色っぽい綾織の服をきた、すこし年かさらしい一人の女学生が立って、努力して感情をおさえながら、自分たちが、中国を独立した文明国にしたいと願う心、民族を向上させたいと思っているこころは、諷刺の問題ではないと思う、といった。しかし、彼女はそれから先へ話を展開してゆくことが出来なくて、着席した。
 一座には重苦しさと、とらえどころのない不服・不満がみなぎった。
 中国女学生たちは、はじめはひそひそと自分のとなりの仲間と話しはじめ、やがて次第にその声がたかまって、しまいには一人おいた先の仲間の言葉にまで、日本語だったら、いま、なんていったの? とでもいうらしく、互におかっぱの頭をのり出さして討論をはじめた。
 司会者側は、こんな結果になろうとは予想もしていなかったらしく、とりいそいだ様子で小声にうちあわせ、またそれを黒服の小柄の人につたえ、すぐつづけて日本側からの婦人に挨拶して貰うことになった。
 伸子の初対面だったある女学校長が、日本と中国の友誼と文化の協力について、もとから印刷されているような言葉をのべた。もう一人、婦人運動にしたがっている婦人の話があり、その人は、それぞれの国の貴重な伝統を新しい生活の中へ新しい形で生かしてゆくべきである、という意味のことをいった。
 伸子の気持には、早川閑次郎の話しかたにたいして、激しい反駁がうずまいていて、もし万一、指名されたら、この気持をどう話したらいいのだろうかと、不安だった。
 三年ばかり前、大戦後のヨーロッパで有名であったアンリ・バルビュスの小説「クラルテ」が翻訳されたとき、その出版記念会があって、伸子も招かれた。その夜、フランス文学者である松江喬吉がテーブル・スピーチをした。翻訳という仕事は女性にふさわしい仕事だから、日本にもこれから優秀な婦人の翻訳家が出ることを希望する、という趣旨であった。そこに伸子の名もふれられた。司会者が、伸子に、それに答えるテーブル・スピーチをもとめた。なに心なく帯どめから白いナプキンをひろげたまま松江喬吉の話をきいていた伸子は狼狽した。話をききながら伸子は、自分は翻訳は出来ないし、したくない、そうはっきり思っていたのだった。生れてはじめてテーブル・スピーチに立たされた伸子は、上気して、人々の顔の見わけもつかなくなり、会場一面が明るくきらつき、花の色が赤や桃色に流れて目に映るばかりであった。伸子はやっと、小さい声でいった。翻訳はたしかに女性むきの仕事だともいえるけれども、女として、ひとのした仕事を、別の国の言葉に移すだけが、一番ふさわしい能力だときめられることは悲しいと思う。翻訳を立派にする人も出なければならないが、自分の仕事をする婦人も、もっともっと出なければならないと思う、と。もっと大きな声で願います、といわれながらやっとそれだけいったときの、のぼせたせつなさを思って、今も、伸子は腋《わき》の下がしっとりとするのであった。
 いいあんばいに司会者は、伸子を指名しなかった。日本側の婦人客が話し出してから、中国女学生たちは、礼儀上しずかになって、その話をきいた。が、一座には、親睦の雰囲気は最後までかもし出されなかった。伸子が不服をもったこころを胸にたたんでいるとおり、中国女学生たちの顔々には、なんのための会だったのかといぶかしがり、不満がっている表情がありありと浮んでいた。挨拶が終ると、またすぐ中国女学生たちは仲間で話し出し、それは批判的な内容であることが、言葉のニュアンスや顔つきで、伸子にも感じられた。一九二七年というその年の二月末には上海の大ストライキがあった。その結果臨時革命委員会というものができて上海市の政治が中国労働者によって行われは
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