「あなたは、北條一雄というひとの書いた本をよんだことがありますか」
「それは――文学の本じゃないでしょう?」
 伸子は、どこかの広告でその名を見た記憶があった。
「文学じゃない」
 浴衣のひとは、苦笑のような笑い顔をした。
「経済と政治ですがね」
「よんだことはありません」
 あるとおりに伸子は答えた。
「――そんな本の話きいたことはないですか」
 伸子たちの生活の輪には、政治や経済の話をする人はなかった。
「一つよんでみる気はありませんか」
「さあ……」
 自分の名もいわずに、いきなりそんな話をしはじめた人を、伸子はまた不思議に感じた。その心持を顔にあらわして立っている伸子に、その浴衣のひとは、また苦笑に似た笑顔を見せた。
「マルクス主義なんていう雑誌は、よまないんですか」
「よんだことないわ」
「文芸理論も出ますよ、篠原蔵人の立派な論文もありますよ」
「そうお」
 篠原蔵人という名前で書かれた文学についての論文を、伸子はいつか雑誌でみたことがあった。読んだがわからなかった。引用から引用に続いた文章の組みたてで、伸子にはどこに、そのひとの文章があるのかよくわからなかった。そういう
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