に出ていた謡本を手にとった。そして、偶然一つの頁がひらいたとき、その一くだりをよんだ。
「じゃ、これでも書いておきなさい」
それは、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、という文句であった。伸子は、その文句が、自分の今そこに坐っているこころもちの静けさとは反対であり、むしろ、伸子のとりなしのぶま[#「ぶま」に傍点]さにもどかしさを感じる感情のリズムにあった文章のように思えた。しかし、筆をとって、卓の上にひろげられた画帖の上に、風趣のとぼしい不確かな字で、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、と書いた。画箋紙は墨をはやく吸って、たどたどしい伸子の筆あとは、一層ぎごちなく見えた。伸子は汗ばむような思いだった。
画帖は、相川良之介にまわった。彼は、その夜、白地に蚊がすりの麻の上に、夏羽織を着ていたが、もち前の慇懃な身ぶりで、画帖をすこしさかのぼってめくった。それから、新しい頁をひらいて眺めていたが、一寸座蒲団の上で体をずらせ、みんなが視線をあつめている卓の上から硯と画帖とを自分の左手の畳の上におろした。そして、じかには誰の視線も届かない方を向き、身を折りかがめて、なにかをかきはじめた。伸子のとこ
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