子の方へ向きかわるようにし、
「ぶこちゃん!」
 改まってよんだ。
「なあに」
「――実はこの間うちから考えていたんだが、ここでひとつ、思いきってロシアへ行って来ようと思うんだがどう思う?」
「――……」
 とっさに伸子はへんじが出なかった。ロシアへ行こうと思う――。素子がしきりに拘泥していたロシアへの国賓のこと。素子はロシア語専門であること。今のところ行って帰って来た人は少いし、行こうとしている人もごく少い。民間の婦人としては一人もいなかった。素子が行きたいと思う動機はひととおりわかりはするのであったが……。
「――急なのねえ」
 そのことがら全体がよく会得出来ない、ぼんやりした表情で伸子はつぶやいた。
「それゃあなたは専門だから、行くのがいいのはわかるけれど……」
 前年の初秋、コンラードという東洋語学者が美しい細君同伴で日本へ来たことがあった。その歓迎会に伸子も素子と一緒に出席した。源氏物語を、ロシア語に抄訳しているというその教授の話の様子では、交換教授の可能性もあるような工合であったが、素子はそのときは格別の興味も示さなかった。
 ――でも、何故、素子はこの話にかぎって結論から
前へ 次へ
全402ページ中249ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング