た。
「保さん、いる? あけてもいい?」
 伸子は、唐紙のひきて[#「ひきて」に傍点]に手をかけてきいた。
「ああ、姉さん? いらっしゃい」
 保は、勉強机に向ってかけ、ひろげた帳面にフランス語の何かを書きうつしていた。北側の腰高窓があけはなされていて、樹木の茂った隣の奥ふかい庭が見おろせた。梢をひいらせている銀杏《いちょう》の若葉が、楓の芽立ちの柔らかさとまじりあって美しく眺められる。
「いつ来たの、僕ちっとも知らなかった」
 保のまぶたはぽってりとしていて、もみ上げや鼻の下に初々しい和毛《にこげ》のかげがある。
「さっき来たばっかり」
 伸子は、ちょっと黙っていて、
「お客なの知っているの?」
ときいた。
「ああ」
「おりて行けばいいのに……」
「――僕はこの間家へ行って会ったばかりだから別に話もない」
 保は、おだやかにいって絣《かすり》の袷《あわせ》を着た大きい膝を椅子の上でゆすりながら隣の庭を眺めおろしていたが、
「姉さん、きょう泊って行くんでしょう」
ときいた。
「そう思って来たんだけれど……」
 伸子のこころもちは、やがてどうきまるにしろ、今はとりつくはしを失っているので
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