。
危い思いをして郵船にかけると、わざわざT氏が出て来られ、事情をきき、温い言葉で慰められたとき、自分は手を執って謝したい心持になった。
ちょうど、一人婦人で契約の曖昧な客があるのだそうだ。
早速その方を確めて、出来るだけ便宜を計ってくれられることになった。若しそれが好都合に行けば、「十二月の三日にシアトルを出て、二十日前後には、東京にいられよう」というのである。
万事を氏の好意に一任して、とにかく、自分達は正金に出かけた。旅行券の裏書をして貰うために、領事館へも行かなければならない。――
今まで、種々な意味で自分の感興を牽《ひ》いていた街上のさまざまな情景は、一時に光彩を失ってしまった。
心の中には、重苦しい、点と点とが出来た。それを、事務的な行動という連鎖で結びつける必要から、眼は、ひたすらそれ等の点ばかりを見つめて動き廻る。街路はただ或る処に行くためにあるく路、地下電車《サブウェー》は、或る一点に、出来るだけ速く体を運ぶ交通機関と、生活は、すっかり潤いと興味とを奪われてしまったのである。
馴れない下町の喧囂《けんごう》の裡に半日を費して、帰ると、T氏から電話で、船室
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