行人は、皆、ぺっ! という顔をする。
 市街の一廓に入った者は、日本の移民が、いかほどの執着を以て集合し、彼奴等は奴等、己は己達、という生活をしているか、驚かずにはいられないだろう。
 もちろん、英語などは読めも書けもせず、日本字の看板をかけた理髪屋で髪を切り、「一寸一杯」と提灯を下げた飯屋で食事をする。
 自分がいやなのは、彼等が百姓だからでもなく、「たくさん子供を産む勤勉家」だからでもない。若し、彼等が、皆、人間らしい大様さと朗らかさと自信とを持った自由労働者なら、私は、心から手を差し延ばして、他国で廻り遭った悦びを述べるだろう。
 人格的に、無責任な、すれた一種の移民根性とでもいうべきもののみで、富を掻攫《かっさら》う姿は、心を傷ませる。それを見つつ、雑作なく「愛す」というのは、それだけ、彼等と直接でないことを意味する。実に、愛すのだ。けれども、実に恥じ、憤おろしく思う。
 無意識のうちに、民族的絆を持っている自分は、人間として低級な、哀れむには余り依怙地《いこじ》な彼等を見ると、直ちに仲間を感じ、我々一体のために苦しい心持にならずにはいられないのである。
 X氏夫妻の日本贔屓も、誠に感謝すべきだが、自分には、どこかにひどい無理があるのではないかと思われた。
 ああいう者だけを見、そこから日本人というものを築きあげている彼等は、実際日本の風景も見ず、日本で文化や精神生活を支えている者達にも会わず、安心して日本を好いていられるのだろうか。
 国際的な種々の感情で、同情や崇拝や義憤は、比較的誰でも持ち易いものだ。ほんとに或る民族の性格を理解し、積極、消極に働く力を知って友誼的公平の立場にあることは最も難かしい。
 今夜、ロスアンジェルスを去るという晩、日本人街を歩いて見、暗い街路と沈鬱な雰囲気に、私は忘れ難い印象を受けた。
 黒い無数の頭と泥だらけな手足。然し、どこにも澄んだ大空や、麗しい大地や、人類の生活を見守る瞳を見出せない。
 サン・フランシスコという名の与える響は、どことなく軟かな暖みを帯びている。
 然し、着いて見ると、風の荒い、いかにも厳しい冬の日が、我々を待っている。激しく揺れる渡船《フェリー》で対岸のオークランドに行き、そこからシアトルに向けて立ったのは、ちょうど感謝祭の夜であった。
 翌二十八日を終日、オレゴンの森林帯で過し、落葉林に美しく霜の置
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