始的神秘に満ちていることなどが、当時の修道僧の生活と、彼等の布教方法、崇拝の心理を、まざまざと今も伝えている。精巧な唐草模様を彫りつけた懺悔台、聖処女を中央に、種々様々な姿態で聖徒や天使の立っている聖壇。お華のあがったクリストの受難像とたくさんの聖書。
 彼等の玉蜀黍がよく実り、ほどよい雨と虹とが彼等の天地を潤すようにと、玉蜀黍の花粉を撒いて祈祷を捧げるインディアンは、これ等、南欧に源を発した宗教的儀式を、どんな心持で眺めただろう。
 オール・セインツ・デーの祭に、僧侶達が皆金襴の法服をつけ、きらびやかな旗や聖像を先に立て、蝋燭の焔を煌めかせながら、讚歌を歌って行列するのを見たインディアンが、口を開き、眼を引据えて跪ずいたのも無理もないことだと思う。また、それを見て、マリアの光栄に限りなし、と讚えた伝道者の心情も、愛すべきものではないか。
             ○
 まる二日の滞在中、さまざま自分の心に浮んだのは、若しこの日本人がいなかったら、ロスアンジェルスという市は、如何程愉快な処だろう、という思であった。カリフォルニアにおける、日本移民と土着人間の紛擾は、もう久しい以前からのことだ。
 外務省は移民政策とし、侵略的国家発展主義者は大和魂の問題とし、それぞれ当座の落付きは得て来たのだろう。然し、こんな感情のいきさつは、決して、日本から行った委員が、ワシントンの会議や州知事の談話で諒解を得て帰ったことだけでは、どうにもなるものでないらしく思われる。
 問題として故国に報ぜられ、亜米利加の新聞が書くようなことは、つまり、その陰に横わる幾千かの不愉快な小事実、または、次第に濃厚になって来た反感的雰囲気の抽象である。
 いわゆる問題は、日常生活のうちに織り混り、市街の空気中に浮動して、自分のような旅行者まで、その影響を蒙らせられるのである。
 何となく両方で気にしている。癪に触る奴等だと腹の底では思っている。それが、ともかくも、緊張して平気を装い、横目でじろり、じろりと、隙を狙って素早く利益を獲得しようという気分が、浅間しく漲っているのである。
 条理の立たない、無智な者同志の反感ほど、見る目に苦しいものはない。暖く朗らかな街の大通りを、襟飾《ネクタイ》もなければ、カラーさえつけない日本の男が、故意《わざ》とのように肩を聳かし、靴を引ずり、四辺を眺めて通って行く。通
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