、その基礎石にたとい一厘の動揺を与えられないでも、消える人間の気息とともに、消滅してしまうかと思われる。それほど、市街自身も生物なのだ。日光を照返す金色の尖塔《ピーク》も、屋根の平たい四角な事務所建築も、厖大な紐育という一生物の体内で何等かの機能を司っている。吸収し、排泄し、住民は自分等が各々日々の生活を安全に支配していると思っていても、実は、麻酔的な都市の威力に制せられ、我以外のものの血液循環によって、知らず識らず体温を保っているようにさえ感じられるのである。
一旦この市に指の先でも触ったら、人はもう、「紐育人」以外の何者でもあり得なくなってしまうのではないだろうか。
こんなに生々しい感銘をもって来ると、華盛頓は、自分に古い画廊のような印象を与える。
実際の人はもう百年も昔に死んでいるのに、肖像画と姓名と、官位と邸宅とは、今もその当時のように生きて、権利を持っている。
前面に壮麗な階段と柱列《コラム》とを持つ議事堂の建物は、恐らく内部に一人の下院議員を持たなくなっても、それが議事堂であったという権威は、アメリカの在る限り失わないで行くだろう。白堊館《ホワイト・ハウス》にしても、与える感じは違いはない。
生き死ぬ個人の後に、記録や報告書が遺って行く。市街は、流れる行人の性格や感興というものによって、溌剌とするよりも、寧ろ大統領、国務卿、または陸軍卿という永代的貫目によって、落付けられ、威厳あらせられているように感じられるのである。
悪くいえば、紐育は吸血鬼だといえよう。然し、華盛頓は、また余りに手触りが乾き、古めかしくカサカサとしている。
これから見ると、ロスアンジェルスは、更に、自然から生れた一つの果実のような市だといえる。
明に、文化的発育の中途にある。けれども、人間が自然と入り混り、飽くまでも土に執して生活して行く有様は、善かれ悪かれ、独特な雰囲気を作っている。
自分の手で百姓をしていないものは、油田や鉱山やその他、種々の土地所有権によって生活している。山と海とにほどよく挾み護られ、四季の適宜な変遷、晴天と降雨との調和によって、地はまるで生産するために創造時代から篩《ふるい》にかけられたような場所に住んで、どうして豊饒な大地に縋らずにいられよう。
商売人も、医者や牧師も、皆、気質的に野天と、太陽とを操っているように思われる。哲学や、理想や、
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