道義観などは、この多産な、生存に適した緯度の上で、全く「今日」に無用な学究なのだろう。腕を強く、自然と人間とが物々交換で、邪魔な者とは喧嘩をし、助ける者には握手をして暮しているのだ。

        八

 我々がロスアンジェルスに着いたのは、十月二十三日の朝、十時頃であったろう。
 続けさまの旅行をしていると、人は、明る日も明る日も同じ列車と顔ぶれで、週日《ウイークデー》などという観念を念頭から失ってしまう。我々は、汽車が連れて来るままに到着したのであったが、その日は偶然日曜日であった。
 予《かね》て時日を知らせてあるX氏は、きっと迎えに来られるだろう。
 とにかく、ここで降り、二三日はゆっくり休めるという期待が、何よりもこの市に自分の悦びを繋いだ。
 考えて見ると、十八日に紐育を出て以来、殆どまる五日、一夜として、静かな動かない寝台に眠ったことはない。絶間ない動揺と、いつも人中に在るという無意識の意識、時ならない温熱が少なからず私を疲らせた。この上は、一時も早く居心地のよい旅舎《ホテル》に落付き、暖い湯を浴び、心置きなく寛ろぎたいという望が、激しく募っていたのである。
 華盛頓以来、幾日ぶりかで都会らしい停車場の歩廊に降りると、私共は急いで改札口に出た。予定の時間より遅れたので、X氏を見失うことを虞《おそ》れたのだ。
「どう? 来ていらっしゃるらしくて?」
 私は、良人の写真帳によって漠然と印象を得ている相貌を、多数の群集の中から見分けようとした。若し、彼が来られないとすると、私共の計画は小さいなりに齟齬《そご》する。これから行こうとする旅舎《ホテル》も、彼が前もって部屋を定めて置いてくれる筈なのである。
 彼方此方見廻していると、ふと入口の方から、もう相当の年配の夫婦づれが、急いでこちらに向って来る。その眼の表情から、自分は確にそれがX氏夫妻に違いないと思った。
 良人は、傍でポータアに金を払い、旅舎の様子か何かを訊いている。
 私は、彼の注意を促した。矢張り、自分の眼は間違いなかった。二人とも髪の白い、どこか山羊に似た表情の共通な彼等こそX氏で、ロスアンジェルスに住む日本人間では、日本|贔屓《びいき》として知られている人なのである。
 如何にも親切に気を使って、種々云ってくれる。疲れただろう、会って嬉しい、と夫人は、私の片手を自分の手に執ったまま後から後
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