る。
 自分が、こんなにして予期しない時旅行に出られたのも、一方からいえば、彼女の健康が原因となっていた。何時死ぬか分らない、何時どんなことが起るか分らないと、絶えず死に脅迫されていた母は、万一自分が歿した場合、私はどうなるかを考えずにはいなかった。ただ一人ほかない弟妹どもの姉として、私はいやでも彼等の母を務めなければならない。五つから十七八の同胞を置きすてて、私がどうして、自分のためだからといって、楽にゆっくりと外国を遊んで来られよう。生きているうち、一寸でも様子を見て来たら、またその次にはどうにかなるだろう、というのが、母の衷心の計画であったのである。
 それを――、如何に私が医学に無智でも糖尿病と分娩とが、どんな危険な道伴れだか位は分っている。――
「大丈夫なの?」
 私は、手紙を握り、声を圧えて良人に訊いた。
「大丈夫なの? 私がいないでも。……お産はいつだって随分重いのよ」
「家でなさるのかしらん」
「それはそうですとも。お母様は、お産の時なんかはなお病院がお嫌だわ。……だけれども、一寸、ほんとに大丈夫なの、私。――」
 少し顔色を蒼ざめ、緊張した良人を睨むように見つめて、私は、激しく涙をこぼし始めた。
「――死なれては堪らないわ」
「もちろん、尽されるだけのことは尽されるだろうが」
「それはそうだわ。だけれども、きっと死なないってどうして分って?」
 私の心の中には、怖ろしいほどはっきり、五年前の七月の二日が甦って来た。ちょうど、妹が生れようとするときであった。私はもうそのとき、母が死ぬものと思い込んだ。それほど、難産であった。涼しい日で、産室の硝子窓は皆ぴっしり閉められている。そこから廊下を隔てていながら、隣室にいる私の耳には、まるで人間と思えない母の叫び声が聞えて来た。
「あ! 先生。先生」
 今にも死ぬかと思う。
「苦しい! 苦しい! 早く」
 自分が生きているのか死んだのか夢中のようになり、私は入れない部屋の厚い扉にぴったりと貼りつき、ぼろぼろ泣きながら立っていた。
 中には、どんなことが起っているのかまるで分らない。最大の危険があるように思い、もう、駄目だと思う。辛抱が出来ないで、蒼くなって震えている女中に、
「どうするの? 若しお母様が死んだらどうするの?」
と詰めよせて行ったのを覚えている。その朝、その、平常から強情であった女中が、ひどく何
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