遠く離れているために、却って近く、我心の裡に感ぜられる心持がしたのである。
 始め、この手紙は、母が書く積りでいたのだそうだ。けれども、生憎、この二三日、体の工合が悪くて筆を執られないので、自分が代って書いた、という文字を見ると、私共は、不安になって一層、紙に近く眼を動した。
 実は、やや突然で驚くかもしれないが、母は、十二月の末頃に、出産の予定になっている、体の工合の悪いのもそのためで、近頃は、大儀で頭も大分疲れているらしく見えるという。それを読むと、私共は、思わず、
「まあ!…………」
と云って顔を見合わせた。云うに言葉も出なかった。激しい不安が互を照り返した。
 父は、我々の驚を予期したように、大事ではあるが、一方から見ればそれだけ健康が恢復したことになるのだから安心しているようにと云っている。然し、自分は、それを強いて父が自分等二人に与えている、或は彼自身に与えている気休めだとほか受取れなかった。静穏に、淀みのない彼の書翰は、ここまで来ると、見えない曇を帯び、無理に、何ものかを意識の外に押しやったような形跡がある。
 彼も心配しているのだ。それにしても、母は、どんな心持でいるだろう!
 私は、更紗模様の被布《スプレッド》をかけたベッド・カウチの上に坐り、手に手紙を持ったまま、全く進退|谷《きわ》まったように感じた。
             ○
 年齢からだけいえば、母は、決して出産が不自然な年ではなかった。彼女はまだ若い。私の同胞は、少なからず夭折していた。淋しくなった我々の仲間に、更に新らしい、愛らしい赤児を恵まれることは、五つになった妹のためにもよい。私共もどんなに歓び笑うことだろう。
 けれども、母は、三四年前、十五になる二男を失ってから、重症な糖尿病にかかっていた。激しい精神衝動の結果、衰弱した彼女の神経は一時に多年の疲労を現したように見えた。齦《はぐき》が弛んでまだ確かりした歯が、後から後からとずり抜け、不眠になり、瘠せて来る。一時は大きいことで鳴らしていた彼女の体も、沐浴の時などに見ると、痛ましいほど小さくなった。細胞が脆弱になり抵抗がないので、少し暑気が激しいと、美しい皮膚が、惨めな汗瘡で被われる。一言でいえば、彼女の裡にある生活力が、次第に力強く再生して内部の廃滅を恢復するかまたはそれに斃《たお》されるか、二つに一つの危い状態にあったのであ
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