もう地面に立っていた。何とも云わず、あたりまえに蝙蝠傘を突いてそこに立っているが、片方の手をあげて抑えている額は蝋のように血の気を失っている。まわりに人だかりもない。この瞬間、異常な出来事が信じられないように夏の午前の空気は透明なままに澄んでいる。
 私はおばあさんを支えて、そろそろと前の牛肉屋の店頭まで行って、そこの店先をかりて腰をおろさせた。俥夫を薬屋へやって、葡萄酒をとって来させた。その牛肉屋の店先には茂った葡萄棚があるので、おばあさんの滑らかな小さい額は一層蒼ざめて見えるし、その下で口元へさし出す葡萄酒の赤い色はコップの中に重く沈んでなお濃く見えるのであった。
 暫く休んでから、改めて近くの医者のところへそろそろと歩いて行った。玄関で私が書生に訳を話していると、簾《すだれ》の奥から浴衣姿の年とった奥さんが、
「まアおばん様、あぶなかったのし」
と国言葉で云いながら出て来て、祖母を扶けて座敷へ上げて呉れた。
 そうこうしているうちに汽車に乗るはずの時刻は夙《とう》に過ぎた。絣姿の弟たちはステーションでさぞ待ちかねて不安でもいるのだろう。私は、
「おばあさん、きょうはおやめにしまし
前へ 次へ
全16ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング