ネ、こころよい黒い瞳でじっと伸子の蒼ざめている顔を見ながら、
「あなたが勇気を失わずに居られることは結構です。あなたはまだお若い。生きぬけられます」
信頼をこめてそう云って、執ったままいる伸子の手の甲を励ますようにねんごろにたたいた。
「ありがとう」
泣きださないで礼をいうのが伸子にやっとだった。ヴェルデル博士のやりかたは、あんまり父そっくりだった。泰造も、伸子の手をとることが出来たら、きっとそうして伸子と自分をはげましただろう。
やがて、伸子は、食事のたびに食堂へ出るようになった。けれども、伸子の状態は、重い病気からやっと恢復しかかっているひとに似ていた。まだごくひよわいところのある恢復期の病人が、微かなすき間や気温のちがいに過敏すぎるとおり、伸子は人々の間に交って食卓に向っているようなとき、何か自分でさえわからないきっかけで、不意に「八月一日」とはっきり思うことがあった。するとたちまち悲哀のさむけ[#「さむけ」に傍点]が伸子の全身を顫《ふる》わせた。何心なくものをのみ込もうとしているとき、前後に何のつながりなくいきなり、保は死んでしまった、と思うことがあった。古くなって光った
前へ
次へ
全1745ページ中456ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング