ルんとにそんなことは問題にしないで、ゆっくり、
「ニーチェヴォ」
と云いながら、窓の方へ体をよじるようにして伸子の書いた字の濡れているインクの上を吹いた。それは自然で、伸子の心をぎゅーっとつかむような自然さだった。ゴーリキイに会っていると、伸子のよんだ作品の世界のすべてが、人間の多様さと真実性をもって確認される感じだった。
 ゴーリキイの室を出て、自分たちの部屋へと廊下を歩いて来ながら、伸子はうれしさから段々しんみりと沈んだ心持に移って行った。ゴーリキイの深い味わいのある艷消しの人間性にこのましさを感じたとき、伸子は反射的に、父の泰造にある艷を思った。泰造のもっている艷の世俗性が伸子にまざまざとした。そしてそこに赤インクのかぎが見えた。伸子はまばたきをとめて父の艷と赤インクのかぎとを見つめるような心持になった。
 一人の芸術家が、個性的だというような表現で概括されるうちは、そのひとの線はほそく、未発展のものだということも、ゴーリキイを見ると伸子に感じられた。
 それから五、六日後、伸子と素子とはヨーロッパ・ホテルから冬宮わきにある学者の家へ移った。レーニングラード対外文化連絡協会の紹介
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