「のだった。
伸子の右手は自由だった。ザラザラする羅紗のチョッキの上にぴったり顔を押しつけて、伸子は自由な右手を、ぐるっとポリニャークの腕の下からうしろにまわし、デスクの方をさぐった。何か手にふれたら、それを床にぶっつけて物音を立てようと思った。
そこへ、廊下に靴音がした。あけ放されているドアから、室内のこの光景を見まいとしても見ずにその廊下を通ることは出来ない。
伸子は、ポリニャークのチョッキに伏せている眼の隅から赫毛のアレクサンドロフが敷居のところに立って、こちらを見ている姿を認めた。伸子は、デスクの方へのばしていた手で、はげしく、来てくれ、という合図をくりかえした。一足二足は判断にまよっているような足どりで、それから、急につかつかとアレクサンドロフが近づいて、
「ボリス! やめ給え。よくない!」
ポリニャークの肩へ手をかけおさえながら、伸子にそこをはなれる機会を与えた。
伸子は白々とした気分で、テーブルの出ている方の室へ戻って来た。いちどきに三人もの人間が席をたって、はぬけのようになっているテーブルに、ザクースカのたべのこりや、よごれた皿、ナイフ、フォークなどが乱雑に
前へ
次へ
全1745ページ中198ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング