して、
「どうぞ。みんな非常によろこんでいます」
二人のどちらとも云わず、一寸腰をかがめた。素子は、はためにもわかるほど椅子の上に体を重くした。
「ぶこちゃん、何とかお云いよ」
「困った――何て? ね」
押問答しているうちに、人々の間から元気のいい、催促するような拍手がおこった。
「ダワイ! ダワイ!」
そういう声もする。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]についた翌日、馬方が馬をはげましていた陽気なかけ声をきくと、伸子は何を何と云っていいのか分らないままに、赤い布で飾られている演壇に上った。小さい伸子の体がかくれるように高い演説者のためのテーブルをよけて、演壇のはじっこまで出て行った。すぐ目の下から、ぎっしりと男女組合員のいろいろな顔が並んで、面白く珍しそうに、壇の上の伸子を見上げた。その空気が伸子を勇気づけた。伸子は、ひとこと、ひとこと区切って、
「みなさん」
と云った。
「わたくしは、たった二週間前に、日本から来たばかりです。わたしは、ロシア語が話せません」
すかさずうしろの方から、響のいい年よりの男の声で、
「結構、話してるよ」
というものがあった。みんなが笑った。壇の上にいる伸子も思わずほほ笑んだ。そして、その先何と云っていいか分らず、しばらく考えていて、
「日本の進歩的な労働者は、あなたがたの生活を知りたいと思っています」
と云おうとした。しかし、それは伸子の文法の力に背負いきれず、伸子の云おうとしたことが、ききてに通じなかった。伸子はそれを感じて、
「わかりますか?」
と、みんなに向ってきいてみた。伸子の真下で第一列にいた中年の女が、すぐ首を横にふった。伸子は困ったが、こんどは単刀直入に、
「わたしは、あなたがたを、支持します」
と云った。さっきの年よりの男の声がまた響のいい声で答えた。
「こんどは分った!」
そして、盛な拍手がおこった。
これは伸子にとって思いがけない経験であった。同時に、伸子をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の心情により具体的に結びつけた出来ごとでもあった。
敏感な素子は、学問として学んだロシア語の知識で、かえって、闊達さをしばられている状態だった。また、素子は二年なら二年という限られた時の間に、来ただけのことはあるという語学者としての収穫をためようともしているのだった。そういう緊張した素子の神経の
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