かたわらに、対外的に課せられている責任をちっとも持たず、自然に、気質のままに、ひろがったり、流れたりしてあらゆるものを吸収しようとしている伸子がいることは、素子を時々はいらだたせるのかもしれない。伸子はそうも思った。
 いま暮しているように暮さないで、どう生活するかとそうきかれれば伸子に分らなかった。けれども、伸子の暮しかたは、素子の生活計画と平行して、では伸子の方はこういう風に、と考えられ、きめられ、そこで始っているものではなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の二十四時間に素子が素子としての線を一本つよくひいた。その線にかち合わないところ、外側のところ、あまったところをひとりでに縫うようにして、伸子のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の細目は、はじまっているのだった。伸子がそういう工合に生活している。そのことは、そんなに全く素子の意識にのぼらないわけのことなのだろうか。
 素子が、マリア・グレゴーリエヴナのところでプーシュキンをはじめるときめたとき、伸子は何心なく、
「新しいものやったら?」
と云った。古典は、持ってかえっても読める。革命後の文学は、つかわれている言葉そのものさえ違って来ているのだから。そう思ったのだった。すると素子が、閃くような笑いかたをして、
「そして伸子さんのお役に立てますか」
と云った。瞬間、伸子にわけがわからなかった。伸子はほとんど、あどけない顔で、
「わたしに?」
とききかえしながら素子を見た。その伸子の眼を見て、素子は急に語調をかえた真面目な調子で、
「わたしは、一年は古典をやるよ」
と云った。そう云っているうちに、素子の顔が薄すらと赧くなった。
「新しものずきは、どこにだってありすぎるぐらいあるさ。しかし、ロシア文学には古いもので立派なものがどっさりあるんだ。いまの文学に意味があるんなら、その歴史の源が、ちゃんとあるんだもの――シチェドリンだって、サルトィコフだって。面倒くさくて儲かりもしないから、誰もやらないのさ。――だからわたしは、一つ土台からやってやるんだ」
 素子が自分で云ったことに対してひそかに赤面したわけは、よっぽどたってから、伸子に、わかった。
 率直ということが卑劣と相いれない本質のものであるなら、素子は卑劣でなかった。素子は伸子に対して、どんな場合も率直でないことはないのだから。けれ
前へ 次へ
全873ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング