けおどしじみた空気は、この小ホテルのどこにもなかった。人々は生活する。生活には仕事がある。ホテルの各室は、生活についてのそういう気取りない理解に立って設備されていた。どの室にも、お茶をのんだりする角テーブル一つと、仕事用の大きいデスクが置かれていた。デスクの上には、うち側の白い緑色のシェードのついたスタンドが備えつけてあり、二色のインク・スタンドがあった。ロシア流にトノ粉をぬって磨きあげられた木の床《ゆか》の、あっちとこっちにはなして、鼠色毛布をかけた二つの寝台がおかれている。
 こういう小ホテルのなかに、おそらくは伸子たちにとって特別|滑稽《こっけい》な場所がひとところあった。それは浴室だった。はじめて入浴の日、きめた時間に素子が先へ二階まで降りて行った。すると間もなく、部屋靴にしているコーカサス靴の木の踵《かかと》を鳴らしながら素子が戻って来た。
「どうしたの? わいていなかった?」
 風呂は、前日事務所へ申しこんでおいて、きまった時間に入ることになっているのだった。
「わいちゃいますがね、――ちょいと来てごらんよ」
「どうしたの?」
「まあ、きてみなさい」
 白い不二絹のブラウスの上に、紫の日本羽織をはおっている伸子が、太い縞ラシャの男仕立のガウンを着ている素子について、厨房のわきの「浴室」と瀬戸ものの札のうってある一つのドアをあけた。
「――まあ……」
 伸子は思わず、その浴室のずば抜けた広さに笑い出した。古びて色のかわった白タイルを張りつめた床は、やたらに広々として、ところどころにすこし水のたまったくぼみがある。やっぱり白タイル張りの左手の壁に、ひびの入って蠅のしみのついた鏡がとりつけてあって、その下に洗面台があった。瀬戸ものの浴槽は、その壁と反対の側に据えられているのであったが、そんなに遠くない昔、すべてのロシア人は、こんなにも巨大漢であったというのだろうか。長さと云い、深さと云い、古びて光沢のぬけたその浴槽は、まるで喜劇の舞台に据えられるはりぬきの風呂ででもあるように堂々と大きかった。焚き口とタンクとが一つにしくまれている黒い大円筒が頭のところに立っていて、焚き口のよこに二人分の入浴につかう太い白樺薪が二三本おかれている。このうすよごれて、だだっぴろい浴室を、撫で肩でなめらかな皮膚をもった断髪の素子が、自分のゆたかで女らしい胸もとについて我から癪《しゃ
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