ス。
「わたしは部屋に居ました――本をよんで」
「それは残念でしたこと。わたしたちは、あなたの旦那様とエレーナ・ニコライエヴナが散歩していらっしゃるのにお会いしましたよ、あの原っぱの古いお寺で。――」
 わきできいていて、伸子はきまりわるい心持がした。素子は、リザ・フョードロヴナに感じている好意から技師とエレーナに反撥してそんな風に話しはじめたにちがいないのだ。でも、それはおせっかいで、誰にいい感じを与えることでもなかった。伸子は、そっと素子をつついた。すると素子は、伸子のその合図を無視する証拠のように、こんどはエレーナ・ニコライエヴナに向ってテーブルごしに話しかけた。
「エレーナ・ニコライエヴナ、散歩はいかがでした? あなたが、古い壁画にそれほど興味をおもちなさるとは思いがけませんでしたよ」
 エレーナ・ニコライエヴナは素子がリザ・フョードロヴナに話しかけたときから、歴史教授のリジンスキーといやに熱中して、デーツコエ・セローでは有名なその寺の由緒について喋りはじめていた。自分に話しかけられると、彼女は軽蔑しきった視線をちらりと素子になげて、技師の細君に向って云った。
「ほんとにきょうは偶然御一緒に散歩できて愉快でしたわ。ねえリザ・フョードロヴナ、ぜひ近いうちに皆さんともう一度、あの寺を見に参りましょうよ、リジンスキー教授に説明して頂きながら……」
 素子は、そんなことがあってから益々エレーナと技師の行動にかんを立てた。ゆうべ、廊下で二人が接吻してるのを見かけた、ということもあった。伸子は苦しそうな顔つきになって、
「いいじゃないの。放っておおきなさいよ。おこるなら奥さんが怒ればいいんだもの」
と云った。
「エレーナはおもしろがっていてよ。あの日本女《ヤポンカ》、やっかんでいると思って――」
「チェッ! だれが!」
 素子は顔をよこに向けてタバコの煙をふっとはいた。
「あんまり細君をなめてるから癪にさわるんじゃないか」
 正義感から神経質になっている自分を理解していない。そう云って素子は伸子をにらんだ。
 耳にきこえ、目にも見える夏のパンシオンらしい些細な醜聞に、伸子は半分も心にとめていなかった。保が死んで日がたつにつれ、動坂の家というものが、いよいよ伸子にとって遠くのものになって行った。自分もそのなかで育ったという事実をこめて。保の死は、動坂の家がどんなに変質して
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