「、また崩壊しつつあるかという現実を伸子につきつけて思いしらした。
 ひとりでじっとしていると、伸子の心にはくずれてゆく動坂の家の思いが執拗に湧いた。パンシオン・ソモロフのヴェランダの手摺に両方の腕をさしかわしてのせ、その上へ顎をのせ、伸子が目をやっているデーツコエ・セローの大公園の森はもうほとんど暗かった。黒い森の上に青エナメルでもかけたような光沢をもってくれのこった夕空が憂鬱に美しく輝いている。伸子の心の中に奇妙なあらそいがあった。心の中で、又しても動坂の家がそのなかへ佐々伸子の半生をこめて、あっちへ、あっちへと遠ざかって行っていた。動坂の家といっしょに伸子の体からはなれて漂い去っていく伸子は、佐々伸子からひきちぎられたうしろ半分であった。目鼻のついた顔ののこり半面は前を向いて、今いるここのところにしがみついて決してそこから離れまいとしている。動坂の家というものが遠くになればなるほど、伸子が自分の片身で固執している今この場所の感覚がつよまって、伸子はいつの間にか素子がわきに来たのにも気がつかなかった。エレーナの室からこそこそと技師が出て来たところを見たと素子は云っている。それがどうだというのだろう。自分がどうなっているからというのでなく、やがて自分がどうなるだろうからというためでなく、死んだ保につきやられて遠のくこれまでの家と自分の半生に対して、伸子は自分の顔が向っている今の、ここに、力のかぎりしがみついているのだった。いまは全く伸子の生のなかにうけいれられている保を心の底に抱きながら。
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   道標 第二部

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    第一章


        一

 その年の夏の終り近くなってから伸子と素子とはニージュニ・ノヴゴロドからスターリングラードまでヴォルガ河を下った。ドン・バスの炭坑を見学したり、アゾフ海に面したタガンローグの町でチェホフがそこで生れて育ったつましい家などを見物して、二人がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来たのは十月であった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には秋の雨が降りはじめていて、並木道の上に落ち散った黄色い葉を、日に幾度も時雨《しぐれ》がぬらしてすぎた。淋しく明るい真珠色の空が雨あがりの水たまりへ映っていて、濃い煤色の雨雲がちぎれ走って行くのもそのなかに見えた
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