ェありましたし、いまでも、その伝統があってバレーでは明らかにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]をリードしていると思います」
「――失礼ですが、わたしたち、お茶がまだなのよ」
 伸子が言葉をはさんだ。
「御免蒙って、はじめてもいいかしら」
「どうぞ。――すっかりお邪魔してしまって……」
「その外套おとりになったら?」
 明らかに焦だって伸子が注意した。
「あなたに見物させて、お茶をのむわけにもいかないわ……」
 そのひとにもコップをわたして、バタをつけたパンとリンゴで茶をのみはじめた。そうしているうちに、伸子の気分がいくらかしずまって来た。不意にあらわれた宮野という人物に対して、自分は礼儀の上からも実際の上からも適切にふるまっていないことに気づいた。話がおかしいならおかしいでもっと宮野というひとについて具体的に知っておくことこそ、必要だ。伸子はそう気づいた。
「いま第一国立オペラ・舞踊劇場で『赤い罌粟《けし》』をやってますよ」
 ちゃんと着かえる機会を失った素子が部屋着のまま、茶をのみながら話していた。
「あんなのは、どうなんです? 正統的なバレーとは云えないんですか」
「レーニングラードでは、このシーズン、『眠り姫』をやっているんですが、僕はやっぱり立派だと思いました――勿論『赤い罌粟』なんかも観たくてこっちへ来たんですが」
 宮野というひとは、
「僕は主として古典的なバレーを題目にしているんです。何と云ってもそれが基礎ですから」
と云った。
 その頃、ソヴェトでは、イタリー式のバレーの技法について疑問がもたれていた。極度にきびしい訓練やそういう訓練を経なければ身につかない爪立ちその他の方法は、特別な職業舞踊家のもので、大衆的な舞踊は、もっと自然であってよいという議論があった。伸子がこれまでみた労働者クラブの舞踊は、集団舞踊であっても、いわゆるバレーではなかった。伸子は、すこし話題が面白くなりかかったという顔つきで、
「日本でも、バレー御専門だったんですか?」
ときいた。
「そうでもないんです。――折角こっちにいるんだからと思いましてね。バレーでもすこしまとめてやりたいと思って……」
 再び伸子は睫毛のうっとうしい宮野の顔をうちまもった。何て変なことをいうひとだろう。折角こっちにいるんだから、バレーの研究でもやる。――外交官の細君でもそういうのならば、不思
前へ 次へ
全873ページ中139ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング