cはなかった。良人が外交官という用向きでこっちへ来ていて、自分も折角いるのだから、たとえばロシア刺繍でもおぼえたい、それならわかった。けれども、この若い男が――では、本当の用事は何でこのひとはソヴェトへ来たのだろう。はじめっからバレーの研究をするつもりもなくて来て、折角だからバレーでもやろうというような話のすじは、伸子にうす気味わるかった。伸子にしろ、素子にしろ、フランスではないソヴェトへ来るについては、はっきりした目的をきめているばかりか、いる間の金のやりくりだって、旅券やヴィザのことだってひととおりならないことで来ている。それだのに――伸子はかさねて宮野にきいた。
「どのくらい、こっちにいらっしゃる予定なの」
「さあ――はっきりきまらないんです。――旅費を送ってよこす間は居ようと思っていますが……」
 素子が、へんな苦笑いを唇の隅に浮べた。
「何だか、ひどくいい御身分のようでもあるし、えらくたよりないようでもありますね」
「そうなんです」
「そんなの、落付かないでしょう。――失敬だが、雑誌社か何かですか、金を送るってのは……」
「西片町に一人兄がいるんです。その兄が送ってよこすんですが――大した力があるわけでもないんだから、どういうことになりますか……」
 そういいながら、宮野はちっとも不安そうな様子も示さないし、その兄という人物から是非金をつづけて送らせようとしている様子もない。
 茶道具を片づけて台所へ出て行った伸子は、つかみどころのない疑いでいっぱいだった。どういうわけで、宮野という人が伸子たちのところへ来たのか、その目的が感じとれなかった。ただ友達になろうというなら、どうして誰かから紹介されて来なかったのだろう、たとえば大使館からでも。――大使館からでもと思うと、伸子は宮野の身辺がいっそうわからなくなった。その大使館で、伸子の住所をきいて来たと云ったって、今朝はしまっているはずなのに。――
 はっきりした訪問の目的もわからずに、日本人同士というだけでちぐはぐな話をだらだらやっているうちに、一緒に正餐《アベード》という時間になり、夜になったりしたら困る。伸子は不安になった。伸子のこのこころもちは伸子自身にとってさえいとわしかった。しかし座もちがわるくなってつい伸子や素子ばかり喋るうちに、えたいもしれないひっかかりがふかまりそうで、それにはいわくがないはずの
前へ 次へ
全873ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング