キぐ》あがったもんですから、朝から大変お邪魔してしまって……」
そのひとはほんの一二分の用事できている人のように、カラーにだけ毛のついた半外套をきたまま、そこにかけていた。伸子は、その形式ばったような行儀よさと、いきなり女の室に入っていたような厚かましさとの矛盾を妙に感じた。意地わるい質問と知りながら伸子は、
「秋山宇一さんとお知り合いででもありますか」
ときいた。
「いいえ。――お名前はよく知っていますがおめにかかったことはありません。まだ居られるそうですね」
「じゃ、どうして、わたしたちがこんなところにいるっておわかりになったのかしら――」
紹介状もない不意の訪問者は二十四五で、ごくあたりまえの身なりだった。ちょっとみると、薄あばた[#「あばた」に傍点]でもあるのかと思うような顔つきで、長い睫毛が、むしろ眼のまわりのうっとうしさとなっている。
宮野というひとは、遠慮ない伸子のききかたを、おとなしくうけて、
「大使館でききましたから」
と返事した。伸子には不審だった。レーニングラードからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて真直来たと云った人が、大使館で、きいて来たという、前後のいきさつがのみこめなかった。しばらくだまっていて、伸子が、
「――きょうは何曜?」
ゆっくり素子に向って、注目しながらきいた。
「日曜じゃないか!」
わかりきってる、というように答えたとたん、素子はそうきいた伸子の気持をはっきりさとったらしかった。日曜日の大使館は、一般の人に向って閉鎖されているのだった。ふうん、というように、素子はつよく大きくタバコの煙をはいた。
「ずっとレーニングラードですか?」
こんどは素子がききはじめた。レーニングラードはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]より物価もやすいし、住宅難もすくないから、レーニングラードにいるということだった。同じような理由から、外務省の委托生――将来領事などになるロシア語学生も、何人かレーニングラードにいるということだった。
「バレーの研究って――わたしたちはもちろん素人ですがね、自分で踊るんですか」
「そうじゃありません、僕のやっているのは舞踊史とでもいいましょうか……何しろ、ロシアはツァー時代からバレーではヨーロッパでも世界的な位置をもっていましたからね。――レーニングラードには、もと王立バレー学校
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