@アストージェンカの室の二重窓にカーテンがなかったから、雪明りまじりの朝の光はいきなり狭い室の奥にまでさした。寝台がわりのディヴァンの上で目をさまし、そういう清潔ではあるがうるおいのない朝の光線に洗われて、すぐ横から突立っている大テーブルの上に、ゆうべ茶をのんだ水色エナメルのやかん[#「やかん」に傍点]が光っているのを眺めたりするとき、伸子は自分たちの生活がほんとに平凡なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの道具だてにはまって来たのを感じた。そして、伸子としてはその平凡であるということに云いつくせない勇躍があり満足があった。
夜になるとカーテンのないアストージェンカの室の窓ガラスの面に、伸子たちが室内でつけているスタンドの緑色のかさの灯かげが映った。長テーブルの中央に本を並べてこしらえた区切りのあっち側に素子が、こっちのドアに背をむける側が伸子の場所だった。ルイバコフの夫婦は小さい男の子を寝かしてから二人で映画へ出かけ、台所に女中のニューラがいるだけだった。アパートじゅうは暖くて、しんとしている。八時になると、ギリシア系で浅黒い皮膚をしたニューラがドアをたたき、
「お茶の仕度が出来ました」
コップや急須をのせた盆をもち、水色エナメルやかんを下げて入って来る。伸子たちは、朝と夜の茶の仕度だけをルイバコフの台所でして貰って、正餐《アベード》は外でたべた。伸子たちもいまは勤め人なみの配給手帖で、イクラや塩漬胡瓜を買うばかりでなく、生活の基本になるパンや茶・砂糖類を自分で買っていた。お茶のとき、伸子はアストージェンカの食料販売所ではじめて見つけて来た酸化乳(プロスト・クワシャ)のコップを二つ窓枠のところからもって来ながら、
「秋山さんたちどうしてるでしょうね」
と云った。伸子たちがパッサージ・ホテルをひきあげてアストージェンカに移るときまったとき、秋山宇一は記念のために、と云って、ウクライナの民謡集を一冊くれた。それは、水色の表紙に特色のあるウクライナ刺繍の図案のついた見事な大判の本だった。
「これは、あるロシア民謡の研究家がわたしにくれたものですがね」
その扉にエスペラントと日本字で、ゆっくりサインをしながら秋山宇一が言った。
「わたしがもっていても仕様がないですからね」
楽譜づきで、ウクライナの民謡が紹介してある本だった。秋山宇一は、メーデーをみてか
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