迢Aると云っていた。
 伸子は、長テーブルの端三分の一ばかりのところに食卓をこしらえつづけた。ひろげた紙の上に、大きなかたまりになっている砂糖を出して、胡桃《くるみ》割で、それをコップに入れるぐらいの大きさに割った。秋山さんたち、どうしているでしょうね、と云い出した伸子の心持には、アストージェンカではじまった生活の感情からみると、パッサージの暮しが平面のちがう高さに浮いているように思えるからだった。ちょいとした事実、たとえば、アストージェンカの台所では、サモワールが立てられたことなんか、まだ一遍もなかった。それさえ、ロシアと云えばサモワールと連想していた伸子にとって新しい生活の実感だった。現代のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人々は毎日誰だってありふれたアルミニュームのやかんで、ガスだの石油コンロだので格別かわったところもなく湯をわかしているのだ。色つけ経木の桃色リボンで飾られたりしてはいない自分のうちの食堂でたべ、さもなければ、この頃伸子たちがちょくちょく行くような、街のあんまり小ざっぱりもしていない食堂《ストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤ》で酢づけの赤キャベジを添えた家鴨の焼いたのをたべたりしているのだった。
 トゥウェルスカヤ界隈で伸子たちのよく行った映画館は、第一ソヴキノや、音楽学校の立派なホールを利用したコロスなどだった。アストージェンカへ来てから、伸子が一人で行く小さな映画館は、昼間伸子がそこでプロスト・クワシャを買ったりパンを買ったりするコムナールの三階にあった。すりへって中凹になった白い石の階段をのぼりきったとっつきにガラスばりのボックスがあって、そこで切符を買い、広間《ザール》では、五人の若くない楽手たちがモツァルトの室内楽を演奏していた。人気のまばらな、照明にも隈のあるぱっとしない広間で、五人のいずれも若くないヴァイオリニスト、セロイスト、笛吹きたちが着古した背広姿で、熱心に、自分たちの音楽に対する愛情から勉強しているという風にモツァルトを真面目に演奏している情景は、感銘的であった。
 そのうちにその日の何回目かの上映が終って、観客席のドアが開いた。広間《ザール》へ溢れ出して来た人々をみれば、誰も彼もついこの近所のものらしく、どの顔もとりたてて陽気にはしゃいでいるとは云えないが、おだやかな満足をあらわしている。ここでは
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