オのみるところじゃ、現代の巨匠と云われる人たちことごとく、可能性に立って試みをしているというか、或は、試みの可能性の限界をためしているとでもいうしきゃないと思いますがね。――どうして、須美子さんが、自分なりに描いていちゃいけないのかな」
須美子は黙っていたが、また子供を寝かしてある隣室へ行って、八号ほどの一枚の絵をもって来た。縁なしのキャン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァスを自分の絵に重ねて椅子の上に立てかけた。
「――磯崎の絵です。――この間大体仕上げたばかりです」
うちで磯崎が、画の道具をひろげているところを、伸子たちは見たことがなかった。画架さえ立てられていなかった。磯崎はどこかに友人と共同のアトリエを借りていて、デュトの家からそこへ通って仕事をしているのだった。住居の部屋の壁に、どんな絵も複製も飾らず、殺風景なむき出しのままにしているところにも、伸子たちは磯崎がどんなに自身の画境の確立に神経を緊張させているかをうかがいとっていたのだった。磯崎の絵を、はじめて見て、伸子はふっと悲しさに心を掠められた。恭介と須美子は贅肉というもののない体つきから、鼻梁の高すぎるほど高い端正な顔だちから、夫婦というよりも兄妹のように互が似ていた。それだのに、須美子の絵と恭介の作品とのちがいのいちじるしさはどうだろう。まるきり二人の世界は別のものだった。須美子が自然発生的に、感覚のままに、よろこびとして描いたホノルル風景の上に、重ねられた恭介の作品は、極端に冷静で、探究的な様式の草花の絵だった。物体としての花の立体面と角とが頭脳的に分解されている。その絵をみて、伸子は、恭介が須美子の絵に理論がない、と云う意味をさとった。須美子の感受するのは、自然のうちに存在するものそのものの生命の訴えであり、恭介は、そういう風に感じとられるものを、もう一つ近代絵画の技法の上で唱えられている一定の方法論のプリズムを通し、分解されたものを、更に意志的に構成しているのだった。
とくに、日本人の生活では見のがせない男と女のちがいというようなものが、柔かい体へ切りこんで来る刃のように伸子に実感された。率直に云ってよければ、伸子は恭介の作品からどんな本源的な独創力も魅力も感じることはできなかった。花の分解や構成の方法、そこにある配色。どれもどこかでいつかどっさり見たこの頃のフランスの絵の一つの感
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