ニ思いついて、四年前に描いた絵をもち出した須美子は、久しぶりで再びながめる自分の作品から、新しく今ある生活に迫って来るものを見出している風だった。
「いま思うと、ホノルルの二週間が、わたしの一生のうちでは一番幸福なころだったのかもしれませんのね」
 そこにすごした日の思い出のなかへひき戻されている須美子の声の響だった。
「わたしたちは結婚したばかりで、磯崎もあすこではまだ本式な勉強をはじめていませんでしたし、わたしには子供がなかったから。……ホノルルで、わたしは子供のようでした」
 須美子が、表情も声の調子もかえないいつもの静かさで自分の絵に見入りながら、ホノルルの二週間がわたしの一生のうちで一番幸福なころだったのかもしれない、と云ったことは、伸子の心の底をはげしくついた。まだはたち[#「はたち」に傍点]を少しでたばかりの、こんな美しさと能力をもっている須美子が、四年前にすぎたホノルルの日を、そんなにはっきり、一生で一番幸福だった時かもしれない、と、パリの灰色の室の中で云うとは、どうしたことだろう! 伸子は、須美子のために非常に切ない心地がして来た。須美子よりいくつか年上の伸子は、自分が須美子のように隠された不幸感を毎日のうちに持たずに暮していることを、鋭く自覚したのだった。
「どっちみち、須美子さんは絵をお描きにならなくちゃいけないわ。赤ちゃんを描いておあげなさいよ、きっと素晴らしいわ」
 この生活にさらされたようなパリの室のむき出しの壁を背にして、ふわりとした白い服の赤坊が須美子の筆致で描かれたら、どんなにおもむきが深いだろう。伸子は、しんからそう感じて云ったのだった。けれども、須美子は、いくらか体をかたくしているような静けさのまま、
「わたくしは駄目よ」
と、つぶやいた。
「磯崎が、いつも申しますわ。わたしの絵は、まるで理論がなくて描くから仕様がないんですって――まだ絵じゃないんですって」
「それで、あなた描くのをやめているんですか」
 素子がそういう調子のうちに、伸子は自分も磯崎に対して感じる漠然とした苦々しさがふくまれているのをきいた。
「じゃあ、わたしも絵と云えない絵のすきな人なんだわ。わたしはたいへん須美子さんの絵が好きよ」
「それでいいじゃないか」
 意味のふかい一瞥で伸子を見て、素子が云った。
「誰だって、可能性からはじめるんじゃありませんか。わた
前へ 次へ
全873ページ中857ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング