ス。
「――ね。世界の人は、パリのもっている表現力のために、フランス政府の歳入をふやしてやっているんだわ――ちがう?」
「…………」
「パリは、いろいろ表現したくてされなかった人の気持を、あらゆる表現で表現してやっているんだわ、表現の最大限、表現の多様なおもしろさを示して……。パリでは、だから、きっと贅沢そのものより贅沢の表現がより贅沢なんだろうし、快楽そのものより快楽の表現の方がきっともっと快楽的なんだわ。そう感じない? 表現を創りだしている人たちって、みんなきっとこのパリで、しらふ[#「しらふ」に傍点]で、地味で、鋭いんだろうと思うわ。それは仕事なんだもの……」
 芸術というものは表現に立っている。その意味で、パリが芸術の都であるというのは、事実だった。
「でもね、パリの人たちは、何に向って表現しているのかしら――大戦からこっち。ねえ。あんな激しい表現の行くさきは、どこなんでしょう」
 磯崎夫妻につれられて行った画商の店にあったドランの、壁いっぱいの大さの、赤松林の風景の印象が、ベレーをかぶった額に青葉かげをうつしながら歩いている伸子の心を横切った。つづいて、別の壁にかかっていたキリコの石膏色の円柱の折れたかたまりと非現実な馬と、人間が。マチスとピカソの年と云われて、伸子たちが歩いた二三軒の画商には、マチスの、溶けるように甘美な調和と休憩の諧調にあふれる作品と、ピカソの奇異なコンポジションが陳列されていた。それらの画商のドアを押してはいり、そのとっつきから陳列されている絵の前に立つごとに、伸子は、鋼鉄《はがね》のようにつよく容赦なく互の独自性を主張して存在しようとしている個性のそばだちを感じた。これらの画家たちは何と強烈に意欲的に、自分の破壊とくみたてを行っていることだろう。それぞれに嶄新な創造を発見しようとして、そのためには野蛮であろうとし、過去の伝統から身をふりもぎって追求しようとしている。その光景は、壮観だった。しかしながら、現代フランスの才能ある画家たちの独自性は、何と独自性のための独自性だろう。フランスの現代美術にはもう流派《エコール》というものはなくなった、と云われている。その現実を、こうして画家たちの個性の林立において眺めると、そこにあるのは着想の嶄新さであり、その嶄新さは一人一人の画家の主観の超現実的な凝集と分解、ディフォーメーション、するどく計
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